2024.01.01

お城へいざ参ろう! 幸せな記憶と共に消えた悲しみの城 小谷城②

 

鶴若まる
鶴若まる

「明けましておめでとうございます!今年最初のお城へいざ参ろう!は、前回に引き続き小谷城をお届けします。2024年もよろしくお願いします!」

 

前回は、浅井亮政~久政の時代の歴史と大嶽・清水谷などを紹介しました。今回は、いよいよ織田信長との同盟と東側尾根の「主要部」を紹介したいと思います。それでは、いざ参りましょう!

 

長政の家督相続

 

父・久政は六角氏と融和路線をとりましたが、これに不満を持つ家臣がおり、賢政は対六角氏強硬派とともに、六角氏から離反する道を選びます。

 

1559年4月 賢政は平井定武の娘と離縁し、六角氏から離反する立場を示します。

1560年8月 賢政は野良田の戦いで六角氏に勝利します。この頃に久政は隠居、家督を賢政へ譲ります。

1561年5月頃 賢政は六角氏からもらった「賢」の字を変え、「長政」に名前を改めます。

 

長政の頃になると京極政権が記録上から消え、浅井氏が京極氏の家中のトップ・北近江のリーダーという地位から抜け出します。

例えば、本来同格であった国人に対し、本拠地とは別の城に移るように命じたり、具足を下賜(甲冑を与える)したりするようになります。別の城へ移る命令というのは国人としての独立性を否定していることで、具足の下賜は浅井氏の家臣になっていることを示しています。

そして、支配領域が3郡(伊香・東浅井・坂田)に広がり、自立した「戦国大名」になったといわれています。

 

 

鶴若まる
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領国(最低2~3郡)を独自に支配したのが「戦国大名」といわれています!

 

一方で、越前朝倉氏に従属する立場だったとも考えられています。※1

前回紹介したように、朝倉氏は金吾丸を築いて浅井氏を攻めましたが、浅井氏は六角氏との抗争を展開するにあたって朝倉氏に支援を求め、この頃になると朝倉氏と浅井氏が同盟を結びます。しかし、朝倉氏の城下町に浅井氏の屋敷跡があることや、長政が朝倉氏を「御屋形様」と表現していることなどから、対等な関係ではなく、従属関係にあったともいわれています。

 

織田信長との同盟

 

長政は織田信長と同盟を結び、信長の妹のお市が長政に嫁ぎます。

この輿入れ時期は記録によって違いがあり、複数の説があります。さらに、それを紐解くヒントとなる書状についての解釈の違いや推定する年(書状には書かれた年が書いていないため)の違いによって、研究者のなかでも輿入れ時期、つまり信長との同盟が結ばれた時期に対する意見が分かれています。

 

現在主流となっているのが、【1567年末~1568年早々】という考えです。

これは長政が初めて信長と連絡を取ったと読み取れる9/15付の書状と、浅井と織田の婚姻が結ばれたということが書かれている12/17付の書状を1567年のものと推定した結果です。

この時期の婚姻と考えると、信長は足利義昭を擁して上洛しようとしており、その通り道である浅井氏の協力を得るため、長政は隣国である美濃を手に入れた信長と良好な関係を構築して六角氏に対抗するために同盟を結んだと考えられます。

 

鶴若まる
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書状の年の推定は内容や登場人物から行われます。例えば9/15付の書状では信長のことを「尾張守」と書いているため、信長が尾張守である1566年9月~1568年8月に絞られます。また文中に登場する人物が信長の家臣となるのが1567年8月以降ということから、1567年の書状と推定されました。

 

 

他にも【1561年】※2【1559年2月以降遅くても1563年】※3という考えもあります。

長政への改名は信長との同盟成立によって「長」をもらったとも解釈できたり、1561年に長政が六角氏への警戒があるなかで斎藤氏の美濃へ侵攻したのは、信長との同盟が背景にあると考えられる結果です。

この時期の婚姻と考えると、浅井氏の敵であった六角氏は美濃の斎藤氏と当時同盟関係にあり、その斎藤氏と戦っていたのが信長でした。つまり、お互いの敵と戦うための同盟ということになります。

 

長政とお市の間には、1569年に長女・茶々、1571年に次女・初、1573年に三女・江が生まれます。(茶々と初の生年には別説あり。長男・万福丸は側室の子と考えられています。)この後、長政と信長は敵対することになりますが、離縁せずに江が生まれていることなどから、2人の夫婦仲は良かったといわれています。

 

鶴若まる
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六角氏が信長の「上洛のため道をあけてほしい」という依頼を断ったため、1568年9月信長は長政とともに六角氏を攻めた結果、六角氏は居城を捨てて落ちていきました。

 

 

大広間に続く曲輪

 

麓から番所があったとされる場所までは、徒歩でも車でも行くこともできます。番所は主要部への入口にあたる曲輪です。

 

①御茶屋

番所の上にある曲輪で、真ん中に低い土塁があります。北西奥に大きな石が転がっており、石垣の崩れの可能性もありますが、庭園遺構とも考えられています。江戸時代から「御茶屋」という名前があるため、実際に茶屋があったのかもしれません。

↑北西奥の大きな石

 

②御馬屋

御馬屋は三方を約2mの土塁で囲まれた曲輪で、実際に馬屋があったかは不明です。北東には馬洗池と呼ばれる南北9m東西6.6mの規模の池があり、中央東寄りに石垣の仕切りがつくられています。馬を洗うための池というよりも、飲料水の貯水施設だったようです。また、この上にある桜馬場の横矢掛かりの窪地にあることから、切岸に敵を近づけないための水堀の役割を担ったようです。

上)御馬屋の土塁 下)手前の窪んだ部分が馬洗池、奥の崖になっている部分が切岸

 

③桜馬場

細長い東西2段からなる曲輪で、西側の段からは礎石が出てきており、2棟の細長い建物があったことが確認されています。桜馬場には土塁がなく、切岸による防御となっています。

上)北から見た東側の段 下)南から見た西側の段、手間の左側の土に埋まっている石が礎石

 

〇桜馬場と御馬屋の攻防

桜馬場の南側はL字の横矢掛かりで、かつ切岸となっています。その下の御馬屋には水堀の役割の馬洗池があります。ここにはどのような意図があったかというと…

 

切岸…敵が登りにくいように急峻にした人工の斜面

横矢掛かり…敵が土塁や斜面を超えて攻めてこようとする場合、直線的であると正面からしか攻撃が

できず不利になるため、横からも矢や鉄砲で敵を攻撃しやすくするために屈折させた構造のこと

つまり、ここは切岸で敵が桜馬場に登ってこられないようにしつつ、さらに水堀をつくることで切岸に近づきにくくするという「防御」と、横矢掛かりで攻めてきた敵に対して様々な角度から「攻撃」をする意図があったということになります。

 

長政やお市が暮らした場所

 

④黒金門

大広間の入口にある門で、石段は昭和に積み直されたものですが、左右に巨石をつかった高さ約3.5mの石垣が残っています。

門の周辺には大きな石が散乱しており、虎口に残されている石よりも大きいものもあります。これは石垣が崩落したもののようで、石垣の上方に大きな石が積まれていたことがわかります。京極丸や山王丸の虎口も同様であることから、虎口部分の見える場所では上部に大きな石を用いていたと考えられ、別の浅井氏有力家臣の城でも見られることから、浅井氏と特徴として捉えられるそうです。※4

 

 

⑤大広間

南北85m東西35mの城内最大の曲輪で、別名「千畳敷」と呼ばれています。桜馬場側には高さ約4mの土塁があり、曲輪ほぼ全域に広がる礎石建物跡や、北東隅には石組みの井戸跡、北西隅には蔵跡が見つかっています。建物の礎石は191cm間隔に配置されており、御殿は広大なものだったようです。

出土した3万点以上の遺物のうち大半がかわらけで、ここで盛んに饗宴が行われていたことがわかりました。また、中国の陶磁器も出土しており、大広間には床間もあったと想定されています。

こうした状況から、大広間は居住空間として存在していたことが明らかになりました。前回紹介した津久井城のように、山城は山頂部が戦時の防御空間で、山麓が平時の居住空間をいう構造を持つと考えられがちでしたが、山頂部にも居住空間を持っていることが判明しました。

↑本丸から見た大広間

 

清水谷にも屋敷があったとされていますが、長政やお市はそこだけでなく、この大広間でも生活していた可能性があります。また、山頂と山麓の屋敷では、使用する場面(他の大名や家臣との対面などの儀礼)に違いがあったと考えられています。

 

 

⑥本丸

本丸といわれていますが、主要部の頂上部にあるわけではなく、中心的な曲輪ではありません。絵図では「鐘丸」とも記されており、鐘撞堂のような施設があったと考えられています。

東西約25m南北約40mの広さの上下2段で構成されており、周囲は急峻で高さは4m程あります。北側の上段には建物があったようで、大広間側には石積が残っています。本丸の東西に土塁を設けて守りを固めており、大広間背後を防御する土塁的な空間であったとも考えられています。

↑大広間からみた本丸と石積

 

⑦堀切

小谷城はほとんど堀切を設けていませんが、本丸の北に大きな堀切があります。この堀切によって、番所から本丸までと、その上部の曲輪群が区切られています。本丸の東西にある土塁とともに、背後からの攻撃を遮断しています。

上)堀切(右側が本丸、左側が中丸)

下)本丸西側の土塁で、こちらは石垣を用いた土塁になっています。

 

鶴若まる
鶴若まる

 

堀切はだいぶ埋まってしまっていますが、実際に堀底部分から見るとかなり幅が広く、ここに深さを想像すると、この堀切を超えるのはとても難しく大変だったと思います。小谷城の守りの要であったと感じました!

 

今回はここまで!

前回の津久井城は、山頂の曲輪は戦時に立て籠もる場所で、山麓に屋敷があるという構造でした。一方、小谷城は山頂でも山麓でも生活していました。「山城だからこういう構造」と決められるものではなく、時代や地形、城主の考えなど色々な要因があって城が造られていることがわかりました!

次回は、姉川の戦いと西側尾根の曲輪についてご紹介していきます!

 

 

参考文献

小和田哲男『浅井長政のすべて』 新人物往来社、2008年 ※4)65P、68P

小和田哲男『近江浅井氏の研究』 清文堂出版、2005年

太田浩司『浅井長政と姉川合戦』 サンライズ出版、2023年 ※2)40~43P

黒田基樹『お市の方の生涯』 朝日新聞出版、2023年 ※1)80~95P

宮島敬一『浅井氏三代』 吉川弘文館、2008年 ※3)166~177P

中井均『【図解】近畿の城郭Ⅱ』戎光祥出版、2015年

長浜市長浜城歴史博物館『歩いて知る浅井氏の興亡』 サンライズ出版、2008年

長浜市文化財保護センター『史跡小谷城跡保存管理計画書』 2014年

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Writerこの記事をかいた人

鶴若まる

鶴若まる

BMW所属の学芸事務員、歴史学科を専攻し三度のフラペチーノより城郭が好きという強者。気になるものは必ず見届ける行動力を持つ。大好きな城は小谷城とのコメントからもうかがえるように,もはや後戻りできない戦国山城女子

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