2024.03.03
お城へいざ参ろう! 幸せな記憶と共に消えた悲しみの城 小谷城③
前回は、長政の家督相続から信長との同盟(お市との婚姻)までの歴史と、東側尾根の主要部の御茶屋から堀切までを紹介しました。今回は、信長からの離反や姉川の戦いについて、西側尾根の曲輪について紹介していきます!それでは、いざ参りましょう!
長政離反の理由
1570年4月20日信長は室町幕府の命令に背いた若狭武藤氏を討つために3万の大軍で京都を出陣します。しかし、上洛の求めに応じない越前朝倉氏を討伐することが当初からの真のねらいで、信長は朝倉氏の城を攻めます。25日には天筒山城を陥落させ、26日は金ヶ崎城と疋田城が降参してきました。
朝倉氏の居城である一乗谷城を目指し、信長が木ノ芽峠を越えようとしたとき長政離反の知らせが届きます。これを聞いた信長は「長政は縁者であり、江北一帯を与えているから不満などあるわけない。嘘だろう。」と言ったといいます。
しかし、このままでは挟み撃ちされてしまうことから、信長は羽柴(豊臣)秀吉や明智光秀たちを殿として、28日夜に金ヶ崎を出発、30日の深夜に京都に到着しました。
〇何故長政は信長から離反したのでしょうか?理由について、浅井方の信頼できる史料に書かれておらず、様々な考えがあります。
A信長の家臣になることを拒み、大名としての独立性を保つため→信長が毛利氏に送った書状に「近年浅井氏は家来になり」と書いており、信長は長政のことを家臣と思っていたようで、これを長政は許せなかったため。※1
B信長に対する不信感があったから→信長が長政に相談なく朝倉氏攻めに向かったことや、六角氏攻めの際に出陣したにも関わらずこれといった恩賞がなかったことで、浅井氏家中に信長への不信感が生まれたため。※2
C朝倉氏との同盟を尊重したから→祖父亮政からの同盟ではないとしても、1561年頃から朝倉氏とは同盟(もしくは従属)関係にあり、信長との関係よりも長い。※3また、父久政が朝倉氏に味方するという同盟の約束を主張し、それが認められたため。※4
D信長の考えに付いていけなかったから→信長の政治構想や自身の政権確立を目指す考えに付いていけなかった。また、長政は地域秩序の確立を目的とした合戦であったが、信長は軍事制圧を目的とした合戦を行っており、目的の違う合戦に疲弊してしまったため。※5
浅井氏のプライド、目指すもの、何を大事にしたいのか…いずれにしても同盟関係の信長から離反するという決断は強い覚悟を持ったものだったと思います。
6月21日岐阜から出陣してきた信長は小谷城下一帯を焼き払います。しかし、急峻な山上にある小谷城を強襲するのは得策でないと考え撤収します。そして浅井氏の支城である横山城を包囲し、信長は徳川家康とともに龍ヶ鼻に陣をおきました。
姉川の戦い~織田・徳川VS浅井・朝倉~
6月28日未明、横山城を包囲する信長に対し、大依山に布陣していた浅井軍と越前から来援にきた朝倉軍が、姉川の北岸の野村・三田村に移動します。信長は、浅井・朝倉軍が大依山から攻めてくるとは思っていなかったようですが、この動きに対し信長は浅井軍の正面「陣杭の柳」付近、家康は朝倉軍の正面「岡山」に陣をはり、両軍は姉川を挟んで対峙します。
兵力は、浅井軍5000・朝倉軍8000・織田軍2万前後・徳川軍5000とみられています。浅井・朝倉軍は数的不利でしたが、横山城を失うと北国脇往環の通行が遮断されること、救援できなかったことで味方の士気が低下すること、朝倉氏は遠国ですぐには来てくれないのでいてくれるうちが対抗できるチャンスであったことなどから、長政は積極的に攻勢に出たと考えられるそうです。※6
上)「陣杭の柳(4代目)」 下)岡山にある流岡神社
徳川軍と朝倉軍の間で合戦が始まり、最初は朝倉軍が優勢でしたが、家康家臣の榊原康政が朝倉軍の側面を突き形勢逆転しました。浅井軍と織田軍でも合戦が始まっており、浅井氏の重臣が織田の陣深くまで攻め入るものの、横山城を監視していた別動隊が浅井軍の側面を攻めてきたことで、浅井軍は不利になり、浅井・朝倉軍は撤退しました。
↑長政の本陣があったという陣田
一方、全面対決ではなく、浅井・朝倉軍の奇襲攻撃であったとも考えられています。横山城を包囲する織田軍の最後尾である龍ヶ鼻に信長が布陣していたことから、信長の本陣を直接攻撃できるチャンスで、本陣をかく乱することで総崩れさせる作戦でした。信長の陣深くまで攻め入った遠藤直経が討死した場所が「陣杭の柳」より後方にあることから、奇襲はある程度成功したものの、反撃を受けて撤退し、朝倉軍も撤退したといいます。※7
↑姉川古戦場
続く信長との戦い
撤退した浅井軍ですが、大敗を喫したわけではなく、その後も度々信長に対して攻撃をします。
1570年9月~12月「志賀の陣」
9月16日浅井・朝倉軍は琵琶湖西岸を進み、19日に織田方の宇佐山城を攻めます。21日には京都まで進軍し、醍醐・山科辺りを放火します。浅井・朝倉軍が比叡山に陣を構えたため、信長も比叡山を取り囲みます。信長は比叡山に中立を保つ(浅井・朝倉軍を追い出す)ことを申し入れますが、比叡山はこれを受け入れず、膠着状態に陥ってしまいます。そのため、信長は朝廷・幕府の力を借りて和睦することにし、12月13日信長と浅井・朝倉の和睦が成立します。
1571年5月「箕浦表の合戦(さいかち浜の合戦)」
5月6日秀吉が守る横山城を攻撃するために長政が姉川まで出陣します。浅井軍が織田方となっていた鎌刃城(米原市)がある箕浦まで攻めたため、秀吉がこれに応戦します。この戦いは織田方の勝利で、浅井軍は多数討ち取られたようです。この動きに対し、信長は8月18日に横山城に入り、26日に余呉・木之本あたりを放火します。
1572年3月7日数万の大軍を率いた信長は、再び余呉・木之本あたりを放火します。これには、小谷城の後方を攪乱し、朝倉氏との連絡を断つねらいがあったようです。
7月21日再び出陣してきた信長が小谷城を攻撃します。城下一帯が焼き払われ、清水谷の一番奥にある「水の手」まで攻め込まれます。この段階で浅井氏の清水谷の屋敷や家臣団屋敷、寺院などは織田軍に落とされ、長政や市たちは山上で籠城することになったと考えられています。
朝倉氏の築城技術が詰め込まれた曲輪
7月30日に朝倉義景が小谷城に到着し、大嶽に陣を構えます。8月2日なると、朝倉氏の軍勢は山崎丸(史料上では山崎丸・福寿丸のある「知善院尾筋」と記載)に陣を移しました。
朝倉氏が陣を構えた大嶽・山崎丸・福寿丸は、個々の独立性が高く、出城のような曲輪になっています。他の曲輪の構造と違っており、朝倉氏の城の特徴と考えられる「主要部が土塁囲み」「分厚い土塁」「直線土塁」「曲輪の周りに部分的に横堀」「枡形虎口」がみられます。朝倉氏が近世城郭につながる進歩的な築城技術で曲輪を改造したと考えられています。
※福寿丸と山崎丸は、浅井氏滅亡後に改修された可能性もあるそうです。※8
①大嶽
亮政の時代に主郭であった大嶽ですが、現在残っている遺構は朝倉氏によって改造された後のものと考えられています。中心部を土塁で囲み、その周りには横堀をめぐらせています。北西部から南西部にかけては曲輪を設け、その外側は切岸や、尾根を遮断する2つの堀切と竪堀(北西部)をつくることで敵の侵入を防いでいます。福寿丸に続く方向には、尾根に並行した竪堀、尾根を遮断する曲輪と切岸があり、馬出状の土塁が設けられています。
②福寿丸
周囲を土塁で完全に囲われた曲輪で、上下2段構造となっています。北側には横堀、東側には竪堀があります。北東コーナーにL字型の土塁を設けており、2つの虎口は「くい違い虎口」となっています。福寿丸という名称は浅井氏の一族「浅井福寿庵惟安」の名をとったといわれています。
③山崎丸
曲輪の周囲を土塁で囲んでおり、その土塁は高く築かれています。上下2段構造で、南側の曲輪の外側に横堀、東側斜面には竪堀を設け、土塁はコの字の横矢掛かりとなっています。南側の虎口は枡形虎口となっており、さらに城内中央部分にある長方形のような土塁により二重の枡形となっています。山崎丸という名称は、1570年に信長が横山城に着陣したときに、越前から来援にきた山崎吉家が守備していたことに由来するといわれています。
〇発達した構造とは?
直線・直角な土塁、部分的に設けられた横堀、枡形虎口、馬出状の土塁などは複雑で高度な技術であり、福寿丸と山崎丸は小谷城のなかで最も発達した構造といわれています。
馬出→虎口の前面に土塁や石垣で設けられた小さなスペースのことで、虎口への侵入を阻止したり、攻撃時には起点となったりする場所。
くい違い虎口→両側の土塁をずらしたり交互に置いたりした虎口で、敵を直進できなくすることで足止めしたり、視界を遮ったりすることができる。
枡形虎口→四角形のスペース(枡形)と2つの門を組み合わせた二重構造の虎口。1つめの門を突破されても敵を枡形に閉じ込め、左右どちらかに方向転換する間に三方から攻撃することができる。
④月所丸
分厚く高い土塁で区切って2つの曲輪を形成しています。東北先端部にコの字状の土塁を設け、その外側には尾根を遮断する3本の堀切があります。曲輪の西側の北側斜面には畝状竪堀群を設け、敵の侵入を防いでいます。
分厚くて高い土塁、越前に多くみられる畝状竪堀群があることから、朝倉氏の技術で築かれた可能性が指摘されています。また、小谷城から同盟関係の越前に繋がる場所にあり、本来は防御する必要が少ないため、信長との戦いで唯一の尾根筋を防御するために、長政が信長から離反した後に築かれたと考えられるそうです。
今回はここまで!
今回は歴史についての紹介が多くなりましたが、小谷城に注目してみると、急峻な山上に築かれていたことが重要なポイントでした。信長は一気に攻めることができず、時間をかけながら何度も攻めることになりました。また前回、長政たちは山麓(清水谷)と山頂(大広間)どちらでも生活していたと紹介しました。信長に清水谷を攻められて山頂に籠城することになりますが、狭い空間で立て籠もるのではなく、大広間のように広いスペースがあったということは、長い籠城生活も耐えやすい環境であっただろうなと感じました。
次回はいよいよ小谷城最後のときです!
参考文献
小和田哲男『浅井長政のすべて』 新人物往来社、2008年 ※2)27P ※4)27P
太田浩司『浅井長政と姉川合戦』 サンライズ出版、2023年 ※1)120~121P ※7)153~156P
黒田基樹『お市の方の生涯』 朝日新聞出版、2023年 ※3)101P
宮島敬一『浅井氏三代』 吉川弘文館、2008年 ※5)205~216P
藤本正行『信長の戦争』 講談社、2003年 ※6)153~154P、165~166P
長浜市長浜城歴史博物館『歩いて知る浅井氏の興亡』 サンライズ出版、2008年
長浜市文化財保護センター『史跡小谷城跡保存管理計画書』 2014年
米原市教育委員会『長比城跡・須川山砦跡総合調査報告書』 2022年
萩原さちこ『日本100名城と続日本100名城めぐりの旅』 ワン・パブリッシング、2022年 ※8)207P
萩原さちこ『日本の城語辞典』 誠文堂新光社、2021年
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