2024.04.27
お城へいざ参ろう! 幸せな記憶と共に消えた悲しみの城 小谷城④
前回は、長政と信長の決別から1572年8月の小谷城攻撃までの歴史と、朝倉氏の築城技術で改修されたとみられる西側尾根の出城的な曲輪を紹介しました。今回は、小谷城落城までの歴史と東側尾根の堀切から北の部分について紹介していきます!それでは、いざ参りましょう!
追い詰められていく長政
1572年7月21日信長に清水谷の一番奥まで攻め込まれますが、武田信玄に上洛に向けた動きがあったため、信長はそれ以上攻めることはせず9月16日に岐阜へ戻ります。
このとき、室町幕府将軍の足利義昭や比叡山延暦寺など反信長勢力が信長包囲網を築いており、浅井・朝倉氏はその一員でした。その浅井・朝倉氏の頼みの綱であったのが信玄でした。信玄は上洛するため、10月3日に信長と同盟を結ぶ家康の領国の遠江(静岡県)へ侵攻し、12月22日に三方ヶ原の戦いで家康を破ります。こうして順調に上洛に向かっていた信玄ですが、途中で発病し1573年4月12日に亡くなります。また7月18日には、将軍義昭が信長に降伏し室町幕府は滅亡、包囲網も崩壊します。
1573年8月8日 小谷城の支城山本山城の阿閉氏が信長に降伏したことで、小谷城は四方から攻撃可能となってしまいます。これをきっかけに信長は再び出陣し、9日に小谷城の目前にある虎御前山城(前年の8月8日に完成した城)に入ります。
↑桜馬場から見た虎御前山城(正面の小高い山)
8月10日 朝倉義景が田上山に陣をおきましたが、信長が山田山に家臣を陣取らせたことで、小谷城との連絡が断たれます。まずは大嶽を攻略して、小谷城を孤立させることが信長のねらいだったようです。
12日 焼尾丸を守っていた浅見氏が信長に寝返り、城内に敵兵を引き入れます。信長自ら焼尾丸から大嶽に攻め上がり、朝倉軍が籠る大嶽が陥落し、山崎丸と福寿丸も信長方の手に落ちます。
※焼尾丸は久政によって近年(対信長の頃?)築かれたとあり、大嶽の北側尾根にあったと考えられていますが、城郭遺構は見つかっていません。(月所丸を焼尾丸とみる向きもあります※1)
13日 織田軍の攻撃により朝倉軍が入っていた支城の丁野山城や、浅井軍が守っていた中島城が落ちます。その夜、義景も越前に向けて退却してしまい、小谷城は孤立無援となります。
義景は退却中に信長の追撃を受け大損害を被り、さらなる追撃によって一乗谷城を放棄します。その後重臣の裏切りに遭い、20日に自害します。信長は26日に虎御前山城に戻り、小谷城へ総攻撃を始めます。
北に広がる防衛施設
小谷城編②で紹介した堀切を境に、南の出丸~本丸までと、今回紹介する北の中丸~山王丸で主要部が分かれている構造となっていることが小谷城の特徴です。また、南の曲輪は曲輪の右側に道があり、曲輪には側面から入る構造で敵がまっすぐ突き抜けられないようになっていますが、北の曲輪は虎口が曲輪の中心にあり、曲輪の真ん中を道が突っ切る構造になっています。
理由は定かではありませんが、初めは南の曲輪だけであったものの、浅井氏の成長にともなって防御や京極家を迎える必要が出てきたため、北に曲輪を付け加えたという考えもあります。※2
①中丸
南北3段からなり、京極丸につづく最上部には刀洗池があります。刀洗池は岩盤を湯舟型に掘り、側面に高さ約50cmの石積みをして浸透水を受けるものだったようです。2段目と3段目の間などに石垣が残っており、曲輪の斜面は石垣で固められていたとみられています。また、2段目はコの字の横矢掛かりとなっています。
↑中丸の2段目と3段目の間に残る石垣
↑窪んでいる部分が刀洗池で、奥の石の階段のようになっている部分から京極丸に繋がります。
②京極丸
浅井氏の主家である京極氏の屋敷があったとされる曲輪で、京極氏の住居らしき建物跡も検出されています。大広間に次ぐ広さがあり(見つかった遺物も大広間に次ぐ多さ)、中心部の曲輪は南北56m・東西34mあります。その前面には3つの曲輪、中心部の曲輪から一段下がった西側にも広い曲輪があります。
東側には高さ約3mの土塁があり(上の写真)、その下には4段の小規模な曲輪が配置されています。
③小丸
東西2段からなる曲輪で、東側の段のほうが高くなっています。久政が家督を長政に譲り、隠居した後に住んでいたといわれています。
↑奥に見える高くなっている場所が東側の段
④山王丸
主要部の詰丸(最終的な防御施設)で、標高約400mと東側尾根で一番高い場所にあります。南北約70mの4段の曲輪で構成されており、小丸との間には馬出しが設けられています。山王権現が祀られていたため山王丸という名前で、現在山王権現は小谷神社と名前を変え、麓の小谷寺の一角に移されています。
直進して侵入する形をとる二重の枡形虎口は、石垣で固められていました。南の枡形虎口には、秀吉によって行われた破城の痕跡とみられる巨大な石が散乱しています。②の黒金門でも紹介したように、虎口部分の見える場所では上部に大きな石を用いていた様子がわかります。
↑上からみた馬出し部分と破城の痕跡の巨大な石。石が道を塞ぐようになっているため、山王丸の奥に進むのが大変です。
小谷城の石垣
これまでにも紹介してきたように、小谷城は所々に石垣が使われており、この石垣が小谷城の特徴でもあります。特に山王丸の「大石垣」は見どころの1つです。
山王丸の東側斜面にある「大石垣」と呼ばれる巨大な石垣は、自然石を積み上げた「野面積(乱積)」の石垣です。比較的大きな石を用いており、高さは約4mもあります。積石は同じ大きさの石材を選んで積み上げており、傾斜角度は垂直に近いといった特徴から、長政の時代に築かれたと考えられています。
〇石垣の分類
【積石の加工の程度による分類】
①野面積→自然の石をそのままもしくはあまり加工せずに使用。もっとも原始的であまり高く積めず、目が粗く上りやすい。
②打込接→積石の接合部分を加工して隙間を減らしたもの。文禄年間(1592~1596)以降に造られた城の多くで使われている。
③切込接→積石を徹底的に加工して隙間がないようにしたもの。最初は主に角の部分に使われ、慶長年間(1596~1615)後半に広まった。
【石の積み方による分類】
①布積→横方向の石の並びがほぼ揃っている。同じ高さの石を選ばなければいけませんが、技術的には簡単。
②乱積→横方向の目地が揃っていない。不規則な形の石を積み上げるため、横の並びが揃わず、高度な技術が必要。
↑浜松城の天守の石垣(野面布積)
↑彦根城の天守の石垣(打込接乱積)
↑駿府城の東御門の石垣(切込接布積)
〇算木積みとは
大石垣の端の部分や本丸の大広間側にある石垣の端の部分には、「算木積み」の兆しがみられます。
↓本丸の大広間側にある石垣の右端部分。長方形の石の下は正方形の石を2つ並べ、その下は長方形の石となっています。
算木積みとは、長辺が短辺の2~3倍ある細長い直方体の石を、長辺と短辺が交互になるように石垣の隅部に積み上げるものです。短辺の隣には隅脇石を置き、上下の長辺側で挟み込むため隅部が一体化して強度が強くなります。
↓名古屋城の西南隅櫓の石垣。赤が直方体の石、青が隅脇石です。
石垣が出現した頃から石垣の隅部の強化は考えられており、最初は巨大な石を用いていましたが、次第に直方体にした粗割石(粗く割った石)が使われ、意識的ではないものの長辺と短辺を交互にするようになりました。1600年の関ケ原の戦い後、石垣の組み方は格段に進歩し、これにあわせて規格加工された石材が利用されるようになり算木積みが完成しました。
↑金沢城の五十間長屋・菱櫓の石垣。手前の角の部分が算木積み(切込接)になっています。赤が直方体の石、青が隅脇石(長辺が長いため、隅脇石が2つになっています)奥の石垣は打込接布積です。
小谷城落城と家族の別れ
8月27日 信長は秀吉に小谷城攻撃を命じ、その夜秀吉は清水谷の最奥部の水の手を登り、京極丸を目指します。小丸を久政、中丸を浅井井規ら家臣、本丸を長政がそれぞれ守っていましたが、中丸を守る家臣が信長と繋がっており、秀吉たちを迎え入れたため、秀吉たちは京極丸の西側の枡型虎口を難なく突破します。
↑京極丸西側の枡形虎口(地図のAから撮影)。石垣によって構えられていたことがわかります。なかなか見つけにくい場所にありますが、ここを突破されたことが小谷城落城を決める重要な場所であるため、ぜひ見てもらいたいです!
↑枡形虎口の外側から見た景色(地図のBから撮影)。右の高くなっている部分が枡形の一辺にあたります。
秀吉が京極丸に入ったことで、小丸の久政と本丸の長政の間が分断されてしまいました。秀吉は先に小丸を攻め、28日もしくは29日に久政は自害します。その後、信長も京極丸へ入り、秀吉に本丸を攻めさせます。
久政と長政が自害した日は史料によって違いがあり、久政は28日説と29日説、長政は29日説と1日説があります。長政が自害した日については、次に紹介する長政の書状の日付などから9月1日と考えられています。※3
お市と三姉妹は小谷城から退去しますが、その経緯は明らかではありません。ただ小谷城が総攻撃される前に交渉があり、長政が信長にお市たちの引取を要請し、信長も承認した可能性が高いとみられます。次女の初ゆかりの人物が1600年代後半に書いた覚書には「小谷城から退去したことをくやしく思っていたとお市が話していた」とあり、退去はお市の本意ではなく、浅井家に殉じる覚悟であったが、長政の説得によって実家に戻る決心をしたという経緯が推定されるそうです。※4
29日 長政は家臣の片桐直貞(片桐且元の父)に書状を送っています。そこでは家臣の多くが離反して城から出ていき、本丸だけが残るなか、籠城を続ける直貞の忠節をたたえ、直貞の覚悟に感謝を伝えています。この書状からは、長政の多くの家臣に裏切られた悔しさや、家臣に感謝を伝える優しさなどが伝わってきます。
9月1日 信長が本丸を攻めてきたため、長政は本丸・大広間から退去し、重臣の赤尾清綱の屋敷(赤尾屋敷)に入り、そこで自害します。長政が自害した場所は確かな史料に書かれていませんが、地元の伝承や後世に書かれた史料で赤尾屋敷だといわれており、現在石碑が立っています。
↑赤尾屋敷に立つ石碑。家臣団の屋敷は多くが清水谷にありましたが、赤尾氏の屋敷だけが山上の中心部にあることから、長政の時代に赤尾清綱が筆頭宿老であったと考えられています。
ちなみに、浅井側の史料には久政が自害した後、長政は和議により降伏する約束であったが、赤尾氏などの家臣が生け捕られたのを見て、長政は家(赤尾屋敷か不明)に入って自害したとあります。
長政の自害により浅井氏は滅亡、小谷城は落城となりました。亮政が京極氏の家臣という立場から台頭し、六角氏・織田氏・朝倉氏と協力・対立しながら勢力を拡大、最後は信長と3年にわたり戦うなかで、小谷城は浅井氏の居城として築城・改修されてきました。しかし浅井氏の滅亡により、浅井氏の居城としての小谷城は終わりを迎えました。ここから先については、次回ご紹介したいと思います!
今回はここまで!
今回紹介した京極丸の枡形虎口や赤尾屋敷などは、実際に歴史の舞台となったことがよくわかる場所で、その当時を想像しやすかったです。それ故に、長政やお市の悲しさや悔しさも想像できて、悲しい気持ちにもなりました。
参考文献
小和田哲男『浅井長政のすべて』 新人物往来社、2008年
太田浩司『浅井長政と姉川合戦』 サンライズ出版、2023年 ※2)55P ※3)68~70P
黒田基樹『お市の方の生涯』 朝日新聞出版、2023年 ※4)120~123P
宮島敬一『浅井氏三代』 吉川弘文館、2008年
長浜市長浜城歴史博物館『歩いて知る浅井氏の興亡』 サンライズ出版、2008年
長浜市文化財保護センター『史跡小谷城跡保存管理計画書』 2014年
米原市教育委員会『長比城跡・須川山砦跡総合調査報告書』 2022年 ※1)96P
萩原さちこ『日本100名城と続日本100名城めぐりの旅』 ワン・パブリッシング、2022年
北垣聰一郎『石垣普請』 法政大学出版局、1987年
三浦正幸『お城のすべて』 ワン・パブリッシング、2020年
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