2025.01.01

お城へいざ参ろう! 堀の迷宮 小机城 後編

鶴若まる
鶴若まる

明けましておめでとうございます!本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今回も前回に引き続き「小机城」編をお届けします!前編では長尾景春の乱の頃の小机城の歴史と、東曲輪や横堀について紹介しました。今回は後北条氏の城としての小机城の歴史と西曲輪について紹介していきます!それでは、いざ参りましょう!

後北条氏の支城として

 

「長尾景春の乱」で太田道灌に攻め落とされた小机城は、正確な時期は不明ですが後北条氏の支城となります。1516年に相模国を支配下においた後北条氏は、1523年から武蔵国への進出を本格的に開始します。そして、1524年1月に扇谷上杉氏の江戸城を攻略しており、相模国から江戸城に向かう間にある小机城も、こうしたなかで後北条氏のものになったとみられています。

 

鶴若まる
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小机城周辺が後北条氏の支配下に入ったことが確認されるのは、史料上は1529年のことですが、それ以前に後北条氏の支城になっていたと考えられています。

後北条氏は、小机城を拠点として小机領を支配しました。ただ1537年時点では、小机領は北条氏綱の三男で玉縄城主の為昌の管轄下にあり、小机城代を伊勢宗瑞(北条早雲)の時期からの家臣であった笠原信為が務めました。

 

鶴若まる
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時期によって多少異なりますが、武蔵国久良岐郡・橘郡・都筑郡の一部(おおよそ現在の横浜市域北半と川崎市域)が小机領の範囲でした。

1542年に為昌が亡くなると小机領は独立します。小机城主には後北条氏の一族が就任し、城代の笠原氏とともに小机領を支配します。小机城に属する城主以下の家臣で構成された「小机衆」は、後北条氏家臣による軍団の1つで、後北条一門と家臣・縁者で構成される「御家中衆」に含まれていました。

 

 

〇歴代の城主

 

*北条三郎

氏綱の弟である宗哲の子で、1556年から亡くなる1560年まで城主を務めました。この頃には、三郎を中心に「小机衆」として組織化された家臣団が形成されたといいます。

 

*北条氏堯(うじたか)

氏綱の四男で、小机地域の一部地域に所領を持っていたため、三郎の後を継いで城主になったと考えられています。ただ、1562年8月を最後に発給文書が確認できず、翌年に亡くなった可能性が高いとみられています。

 

*北条氏信

宗哲の次男で、氏堯の役目を継いで城主となりました。1569年12月に武田信玄が今川氏の駿河に侵攻すると、後北条氏は今川氏を助けるため駿河に出兵し、氏信と小机衆は武田氏との戦いの最前線に配置されます。氏信はその最中1570年12月に蒲原城で討死してしまいます。

 

*北条氏光

氏堯の子で兄の氏忠とともに、後北条一門のなかで氏政の弟たちに次ぐ立場に位置付けられていました。宗哲の娘と結婚し、遅くとも1573年頃には小机城主として支配するようになります。また、駿河と伊豆の一部も支配していました。

 

歴代城主が小机城に在城した記録は見られず、小机城には城代の笠原氏の被官や代官が常駐したと推測されています。これは、後北条氏が関東に侵攻した当初は、山内・扇谷上杉氏などに対する前線基地として機能していたものの、次第に役割が低くなったためとされています。氏光の活動の大半も、武田氏や徳川氏との境目である後北条氏領国の西端(足柄城など)で行われていました。

 

 

小田原合戦と小机城

 

1585年に豊臣秀吉が関白になり、後北条氏と同盟を結んでいた徳川家康を従属させたことで、後北条氏は豊臣氏への防御体制強化のために、小田原城や各支城の普請を行ったり、戦いに備えて領国内の各郷村へ百姓動員令を発するようになります。

 

*1588年7月26日 氏政が小机の百姓へ城に集まるように命じる

小机領内の百姓へ「15~70歳の男性は武器を持って小机城に集まるように」命じています。

 

*1590年3月1日 小田原攻めのため豊臣秀吉が京都から出陣する

 

*3月20日 氏光は足柄城にいるように氏直に命じられ、正規の軍勢に足軽100人を追加するように指示される

→1582年10月にも徳川氏との境目の城の守備や普請のために、氏光は600人の軍勢を率いて足柄城に入っており、領国の西側の防御を強化する際に、後北条氏は氏光と小机衆を派遣する考えだったことがわかります。

 

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小田原合戦において、後北条氏は領国の境目地域の防御を固め、突破された場合は小田原本城を中心に籠城する方針だったようです。

 

*4月 後北条氏の支城が次々に攻略される

→4月1日には家康の先陣が箱根に進み、4月2日には氏光が派遣された足柄城なども戦わずに開城します。氏光は足柄城から撤退し、小田原城へ入りました。

→小机城の具体的な状況は不明ですが、4月10日に玉縄城、4月22日に江戸城が開城します。この2つの城の間にある小机城も、この頃に開城されたと推測されます。

 

*7月5日 後北条氏が降伏する

約18万の大軍に攻められた後北条氏は、小田原城と忍城(埼玉県行田市)を残すのみとなり、氏直は秀吉に降伏します。氏政は切腹、氏直は高野山追放となると、氏光は高野山に同行しました。その後、後北条氏の領国には家康が入りました。

 

西曲輪の発掘調査

 

西曲輪は東西40m・南北40mほどの四角い平面であり、周囲を土塁で囲んでいます。東側に大きな折れがあり、張出部となっている部分には中曲輪へと続く虎口があり、枡形虎口を形成していた可能性があります。

西曲輪の東西南北の各所で発掘調査が行われており、小机城がどのような変遷をたどったかを紐解くヒントとなるような発見がありました。

 

東調査区で見つかったのは、斜面がやや北東を向き、斜度は上部がおおよそ垂直で、中部から下部は約50°となっている堀状遺構です。この堀状遺構は西曲輪と張出部を境に扇状に広がる可能性があり、その場合は東調査区の北東にある西曲輪と中曲輪を隔てる堀と繋がる可能性があるそうです。

↓張出部から写した東調査区

堀状遺構を埋めた土(覆土)からは、後北条氏の勢力下にあった16世紀前半のかわらけなどが出土しています。また、江戸時代の絵図では西曲輪とみられる部分に張出部が描かれ、堀状遺構を示すようなものは描かれていません。

こうしたことから、後北条氏が支城とした後に堀を埋め、西曲輪を拡張した可能性が高いと考えられています。曲輪面の拡幅や整地の一環として、堀を埋める普請が行われた可能性が高いようです。

 

↓西曲輪(一番右手のブルーシート辺りが北調査区)

北調査区では、北空堀へと続く曲輪の端に盛土をして、意図的に平坦に改変した可能性があることがわかりました。盛土をして平坦にすることで、空堀の深さを確保するとともに曲輪の面積を広げようとしたと考えられています。この盛土からも16世紀前半のかわらけが出土しています。

北空堀は斜度が約35°で、表面がとても丁寧に整形されていました。堀底は検出されませんでしたが、堀の深い部分の斜度は約49°と、堀底に向かって傾斜がきつくなるつくりだったようです。

↓北空堀(写真だと深さが伝わりにくいですが、上から見下ろすとかなり深さがあります)

北調査区で確認された曲輪造成のための盛土は、丁寧に突き固めた様相であるのに対し、東調査区の堀状遺構を埋めた土は単に上から流し込まれた様相だったそうです。どちらも普請であるものの、堀の埋め立ては時間的な制約により、より緊急的な作業であった印象で、2つの普請には時間的な隔たりがあることが想定されています。

 

鶴若まる
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東調査区から見つかった堀をいつ誰が掘削したのかは不明で、2つの普請の主体も推測の域は出ないそうです。

 

各調査区から出土したかわらけや陶磁器は、後北条氏の支城であった時期の16世紀前半のものとみられています。また、東調査区と南調査区からは、金属が付着したとりべ(溶けた金属を運搬したり、鋳型に注ぐ際に用いる容器)が見つかっており、鍛冶関連行為の痕跡と考えられています。

 

 

徹底的に敵の侵入を防ぐ!

 

西曲輪の南には櫓台を伴った虎口があり、土橋を渡った対岸には角馬出があります。ここ一帯には城を守るための工夫がたくさんされています。

 

虎口の前面に角馬出を設けることで、ここに兵を置くことができ、虎口と土橋に敵が侵入するのを防ぐことができます。この角馬出は土橋の左右で堀の位置をずらし、くい違いにすることで造り出しています。

↓角馬出(右手奥に虎口へ向かう土橋が通っています)

堀をくい違いにしたことで、敵の侵入通路となる土橋が屈曲します。虎口にある高さ2.2mの櫓台に近づくように屈曲しているため、敵は櫓台に向かって攻めることになり、城兵は敵をより狙いやすくなる構造になっています。

↓門があるところが虎口で、手前の櫓台に向けて土橋が左から右へ屈曲し、最後に左に屈曲して虎口に向かっています。

↓虎口手前にある櫓台から、近づいてきた敵を狙います。

曲輪に敵を侵入させないため、櫓台・くい違いの堀・屈曲した土橋・角馬出を組み合わせて防御しており、城を守るためにたくさん工夫していることがよくわかります。

 

今回はここまで!

小机城は、後北条氏の支城として巨大な堀や工夫された虎口など「戦いに備えるつくり」になっている一方、まだ詳細は不明なものの、掘立柱建物や曲輪を拡張した痕跡が見つかっており、周辺地域を支配するための建物や広さを確保したお城でもあるように感じました!

最近になって発掘調査が行われ、西曲輪東調査区の堀状遺構のように新たな発見もあるので、後北条氏以前の城の姿や、いつどのような普請が行われて今の姿になったのかなど、今後の調査や研究が楽しみなお城です!

 

参考文献

『神奈川中世城郭図鑑』 戎光祥出版、2015年

『日本城郭大系第6巻』 新人物往来社 1980年

黒田基樹『北条氏綱』 ミネルヴァ書房、2020年

黒田基樹『北条氏康の子供たち』 宮帯出版社、2015年

黒田基樹 『敗者の日本史10小田原合戦と北条氏』 吉川弘文館、2013年

池亨『東国の戦国争乱と織豊政権』 吉川弘文館、2012年

西股総生『首都圏発戦国の城の歩きかた』 ベストセラーズ、2017年

横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター『神奈川県横浜市港北区小机城跡令和3・4年度小机城埋蔵文化財試掘調査報告書』 横浜市教育委員会、2024年

横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター『小机城を明らかにー小机城埋蔵文化財試掘調査についてー』 横浜市教育委員会、2021年

Writerこの記事をかいた人

鶴若まる

鶴若まる

BMW所属の学芸事務員、歴史学科を専攻し三度のフラペチーノより城郭が好きという強者。気になるものは必ず見届ける行動力を持つ。大好きな城は小谷城とのコメントからもうかがえるように,もはや後戻りできない戦国山城女子

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