2025.06.27
お城へいざ参ろう! 鶴若まるの鎌倉散策後編


みなさん、こんにちは!
今回も前回に引き続き、番外編として「鶴若まるの鎌倉散策」をお届けします!それでは参りましょう!
前編では「鎌倉城」や永福寺と義経、やぐらについて紹介しました。今回は鎌倉散策の後半戦、鎌倉幕府滅亡にまつわるお話と朝夷奈切通について紹介していきます!それでは、いざ参りましょう!

鎌倉幕府の滅亡とやぐら
瑞泉寺裏山やぐら群の先を進むと「北条家御一門御廟所」があります。鎌倉幕府の執権であった北条氏一族を祀る墓所とされており、北条首やぐらともいわれています。御廟所につながる道には、文政12年(1829年)正月に建てられた「従是左 北條家御一門御廟所道」という道標石が残っています。(従是右~もありますが、途中まで埋まっています)

↓やぐらの入口部分が埋まってしまっていますが、よく見ると中に五輪塔があることがわかります。

北条家御一門御廟所から奥に進んだところに「貝吹地蔵」があります。1333年の新田義貞の鎌倉攻めの際、14代執権の北条高時の首を守る者が貝を吹いた地蔵に道案内してもらったという伝承にちなむといいます。

〇鎌倉幕府の滅亡
皇位継承をめぐって後醍醐天皇が討幕を企てたことをきっかけに、反幕府の動きが畿内や九州などの武士に広がります。そして、源氏一門で御家人の新田義貞や足利高氏(尊氏)も討幕に動きました。足利氏は北条氏(得宗家)に次ぐ格式の名家で、高氏の離反によって様子見をしていた各地の武士が討幕に加わりました。
1333年5月18日義貞率いる討幕軍は、巨福呂坂・仮粧坂・極楽寺切通の3方向から攻撃を仕掛け、各所で激しい攻防となります。幕府方は3つの切通を突破されないように総力をあげて防戦しますが、22日討幕軍に稲村ケ崎から鎌倉内に突入されます。

由比ガ浜あたりで幕府方の主力は最後の激戦を繰り広げますが、鎌倉内に入った討幕軍は放火を繰り返し、高時は行き場を失います。高時は一族の菩提寺である東勝寺に入り、寺に火を放って一族郎党とともに自害します。これにより、鎌倉幕府は滅亡となりました。東勝寺には高時らが自害した場所という「腹切りやぐら」があります。

また、釈迦堂谷には東勝寺で切腹した北条方の人々が埋葬されたという言い伝えがあり、実際に刀傷が残る生焼けの頭蓋骨が発見されています。そして、釈迦堂谷奥やぐら群から「元弘三年五月廿八日」と刻まれた五輪塔が発見されており、これは北条氏一族・郎党が自害した初七日にあたる日であることから、北条氏との関連があると見られています。
頼朝勝利の功労者「上総広常」
貝吹地蔵から前編で紹介したお塔の窪やぐら通って、写真を撮っている余裕があまりないような茂みや湿地を1時間ほど歩きます。
↓休憩しているときに撮影しましたが、このような水が溜まっているところもあります。

こうして到着したのが「太刀洗水」です。これは1183年12月に御家人の梶原景時が上総広常を討った際に太刀を洗った水だと伝わっています。

上総広常は、頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房に逃れた後に合流を呼びかけた武将で、頼朝配下で最大の軍勢を率いており、頼朝勝利の最大の功労者でした。しかし、広常は朝廷を否定し謀叛心を持っているとされ、頼朝の命によって景時に誅殺されます。広常は東国独立を目指しており、頼朝の上洛に反対して頼朝の構想を阻害したために粛清されたとみられています。

広常が2万ともいわれる軍勢で頼朝に合流した際、頼朝に従っても内心では殺害を企てたと吾妻鏡にはありますが、それは粛清の伏線であり、合流前には頼朝の敵側を攻撃したという記載があるなど頼朝側であったようです。※1
広常は冤罪による粛清であったと吾妻鏡に書かれており、冤罪として一族郎党の処罰を回避して別の御家人の配下に組み入れたとみられています。広常は半ば独立した同盟軍に近い立場で、広常の同意を得られなければ作戦遂行が難しくなるような頼朝の軍勢の動向を左右する存在だったため、広常を粛清して頼朝が意のままに動かせるように再編したとも考えられています。※2

↑上総介塔
朝夷奈切通あたりは広常にゆかりがあるとされる場所が多くあります。広常の屋敷が十二所(切通の西南麓付近)にあったと伝わっており、頼朝は新しい御所が完成するまでの間滞在していたようで、1180年12月12日に広常の屋敷から大倉御所へ移っています。また、散策のゴール地点には「上総介塔」があり、これは広常の供養塔といわれています。
昔の雰囲気を残す朝夷奈切通
太刀洗水を過ぎると、すぐに朝夷奈切通に到着します。朝夷奈切通の名前は、御家人の和田義盛の三男で豪勇の武者といわれた朝夷奈三郎義秀が一夜にして切り開いたという伝説にちなんでいます。朝夷奈切通の入口(鎌倉内から見て)にあたるところに「三郎の滝」があります。

切通とは山や丘を削って切り開いた道路で、三方を山に囲まれた鎌倉は切通以外に外に通じる道がありませんでした。7つの主な切通を「鎌倉七口」といい、鎌倉の内と外をつなぐ交通路であるとともに、道幅が狭く敵の侵入を防ぐ重要な役割もありました。
①朝夷奈切通 ②名越切通 ③亀ヶ谷坂 ④巨福呂坂 ⑤仮粧坂 ⑥大仏切通 ⑦極楽寺切通

鎌倉七口のなかでも、最も昔の姿をよく残しているのが朝夷奈切通といわれています。
朝夷奈切通は鎌倉東方の金沢や六浦に抜ける道で、六浦が鎌倉の外港として栄える中期以降は海路で運ばれた物資を鎌倉に搬入する道として重視されました。

朝夷奈切通については、吾妻鏡の1240年11月30日条によると、鎌倉と六浦との間に初めて道路を造ることが決まり、測量を行って御家人らに負担を分配し、翌年3月以降に造り始めることになったといいます。
翌年4月5日には、執権の北条泰時が監督するなか工事が始まり、集まった人々が土石を運びましたが、工事の進みが悪かったため、5月14日に再び泰時が現場へ行って乗っていた馬で土石を運ばせると、それを見た人々は仕事に励んだそうです。

吾妻鏡には初めて道を造ったとありますが、鎌倉から六浦荘へ続く六浦道は、頼朝が鎌倉へ入る前からあったとみられており、泰時が行った工事は道を拡幅するものだったとも考えられています。※3
↓鎌倉内に向かっていく写真

六浦は幕府の重要の外港であり、かつ六浦荘は泰時の弟にあたる金沢実泰・実時親子の所領でした。当時北条氏は三浦半島の三浦氏との緊張関係となっており、鎌倉と六浦を結ぶ道路を整備することで、有事となれば味方の軍を鎌倉に入れやすくすることができました。つまり、朝夷奈切通は北条氏にとって、経済的にも軍事的にも重要な道でした。

1250年6月には土石で埋もれたため、再度工事が行われました。その後も度々改修工事が行われたようで、道中には今も安永9年(1780年)や文化9年(1812年)の道普請供養塔が残っています。
朝夷奈切通を抜けてゴールにたどり着きました!
スタートからゴールまで、途中お昼休憩を挟んで約6時間30分の鎌倉散策になりました。鎌倉市街地をめぐる散策とは全く違う鎌倉を知ることができ、やぐらや切通など鎌倉時代の面影を感じることができました。
お塔の窪やぐら辺りの道は歩くのが大変ですが、朝夷奈切通は多くの人が行ける場所になっているので、興味を持っていただいた方はぜひ行ってみてくださいね!
参考文献
元木泰雄『源頼朝』 中央公論新社、2019年 ※1)67頁、※2)120~121頁
奥富敬之『鎌倉歴史散歩』 新人物往来社、2001年 ※3)37頁
坂井孝一『源頼朝と鎌倉』 吉川弘文館、2016年
千野原靖方『上総広常』 戎光祥出版、2022年
大三輪龍彦『鎌倉のやぐら』 かまくら春秋、1977年
新田一郎『太平記の時代』(日本の歴史第11巻) 講談社、2001年
湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』(動乱の東国史3) 吉川弘文館、2012年
黒板勝美『国史大系吾妻鏡第3』 吉川弘文館、1988年
五味文彦『現代語訳吾妻鏡11』 吉川弘文館、2012年
『「古都鎌倉」を取り巻く山稜部の調査』 神奈川県教育委員会、2001年
『日本歴史地名大系14 神奈川県の地名』 平凡社、1984年
三浦勝男『鎌倉の地名由来辞典』 東京堂出版、2005年

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