2021.07.03

お城へいざ参ろう!   調布の丘にそびえる自然の要害 深大寺城

鶴若まる
鶴若まる

みなさん、お久しぶりです!

前回の第1城は、町田鶴川支店にほど近い「小野路城」でした。

今回のお城へいざ参ろう!は「深大寺城」編です。それでは参りましょう!

 

深大寺城は、その名の通り深大寺の近くにあったお城で、現在は神代植物公園水生植物園の中から入るようになっています。
調布支店からは車で10分以内で行くことができるので、今回はその道のりを動画でご紹介します!

 

 

深大寺城の歴史~役目を果たせなかったお城~

深大寺城は、戦国時代の1537年に扇谷上杉氏によって築かれました。この時期、扇谷上杉氏は後北条氏と関東の覇権をめぐって争っており、後北条氏に対抗するために昔あったお城を再興して深大寺城としました。

 

扇谷上杉氏がこの場所に深大寺城を築いた理由は…

1、1524年に重要拠点である江戸城を後北条氏に奪われていた。

2、1530年には多摩川を挟んだ対岸の小沢原で後北条氏と激戦を繰り広げており、かつ築城当時は深大寺城周辺が後北条氏との境目(1)になっていた。

東の江戸城の奪回にも動きやすく、南からの後北条氏の進軍にも注意できる場所であったため、深大寺城が築かれました。

つまり、深大寺城周辺は、後北条氏との攻防戦において重要な場所であったのです!

 

● 1537年6月 扇谷上杉氏の軍勢が深大寺城に入る。

後北条氏が房総(千葉)での争いに敗北し、駿河(静岡)へ出陣したため、その隙を攻撃しようと考えたようです。しかし、実際には深大寺城に入った扇谷上杉氏の軍勢は少なかったようです…

● 1537年7月 後北条氏が深大寺城ではなく、扇谷上杉氏の本拠地である河越城(埼玉県川越市)を直接攻める。

後北条氏は深大寺城を気にせず、相模当麻を経由し、「山の辺の道」(相模原市当麻を経由し山沿いを通って)から河越城へ向け進軍したと考えられています(2)。

扇谷上杉氏の軍勢は撃破され、本拠地を奪われてしまいました。

 

深大寺城は見向きされず、そのまま役目を失って使われなくなりました。

しかしそのおかげで、扇谷上杉氏が一定水準の築城技術を持っていたことなどがわかる重要な資料となりました。

 

 

自然の要害

 

深大寺城は、舌状台地を3本の堀で遮断した直線連郭式となっています。

城は舌状台地の端に位置しており、南・東・北は低地や谷になっているため、敵は西から攻めるしかありません。そのため、主郭は攻め込みにくい東端に築かれています。

各郭を堀で遮断することで、西から攻められて第3郭を守り切れなくても、次は堀を挟んだ第2郭を守るというように、主郭まで一気に攻め込まれないように区分けして防御しています。

鶴若まる
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舌状台地…半島状に高台となっている地形(深大寺城の標高は約50m)

直線連郭式…各郭(主郭・第2郭・第3郭)が直線的に並んでいる構造

 

 

 

第2郭に到着!

 

①水生植物園を入って右側の坂道を5分程登ると、広い第2郭に到着します。

写真の奥のほうの所々に並んでいる石、これは建物の柱の跡を表しています。

ここには9棟の建物があったようで、そのうち8棟は近い位置にありますが、柱跡が重複していないため、同時期に建物が存在していた可能性が高いようです。

また、柱穴の規模や深さから、8棟のうち5棟は堅固な建物で、3棟は小規模かつ位置関係から廊下などの建物であったと考えられています。

 

堀の規模と種類

 

➁第2郭と主郭の間にある土塁と堀までやってきました。

A地点(左側が第2郭/右側が主郭)

 

B地点(左側が主郭/右側が第2郭)

 

当時の規模が…

 

鶴若まる
鶴若まる

ちなみに…上幅はA地点で約318I(全長4.71m)2台分

B地点は218Dグランクーペ1台分+横幅(全長4.53m/幅1.8m)です。

 

堀に落ちてしまうと、上から敵に襲われながら2階~3階程の高さの土の壁を登らなくてはならないということになります。

下の写真の目線で2m程度の土の壁なので、この3倍以上の高さとなるとすごいですよね…

 

 

ここの堀は「薬研堀(やげんぼり)」といわれる種類の堀でした。

(薬研とは、薬などを作る際に使う原料をすりつぶして粉末にする器具のことです!)

理由は定かではありませんが、郭を遮断する堀3本のうち、ここだけが「薬研堀」で、あとは「箱堀」でした。

➂土橋

この土橋は主郭と第2郭を結ぶ唯一の通路です。

横幅は1.7m、長さは堀の上幅と同じ約6mで、橋となる部分は、堀を掘るときに掘り残して作られました。

 

ここから見ると土塁と堀と土橋がきれいに見えます。

今回はここまで!続きは後編でお伝えします!

 

最後に…

深大寺といえば「蕎麦」ということで1枚!

ちなみに、深大寺周辺は江戸時代米の生産に向かなかったため、小作人は蕎麦をつくってそば粉をお寺に納めており、お寺では蕎麦を打って来客をもてなしたと伝えられています。深大寺の蕎麦が有名になったきっかけは、上野の寛永寺の門主が気に入って言い広めたからとも、江戸幕府3代将軍の家光が食べて褒めたからとも言われているそうです。

 

そして、調布といえばゲゲゲの鬼太郎!

写真は深大寺の目の前にある鬼太郎茶屋さんの「目玉のおやじまんじゅう」です。

どちらも、とても美味しかったです!

 

 

参考

『東京都調布市深大寺城跡 調布市埋蔵文化財調査報告書』 調布市教育委員会 2007年

『日本城郭大系 第5巻』 新人物往来社 1979年

『東京都の中世城館 主要城館編』 東京都教育委員会 2006年

『子どものための調布市の歴史 第二版』 調布市立図書館 2001年

西股総生 『首都圏発戦国の城の歩き方』 ベストセラーズ 2017年

(1)竹井英文「戦国前期東国の城郭に関する一考察-深大寺城を中心に-」 『一橋研究』 34巻 一橋研究編集委員会 2009年 44頁

(2) 黒田基樹 『北条氏綱 ミネルヴァ日本評伝選』 ミネルヴァ書房 2020年 219~220頁

 

前回の記事

 

 

Writerこの記事をかいた人

鶴若まる

鶴若まる

BMW所属の事務員、歴史学科を専攻し三度のフラペチーノより城郭が好きという強者。気になるものは必ず見届ける行動力を持つ。大好きな城は小谷城とのコメントからもうかがえるように,もはや後戻りできない戦国山城女子

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