2021.12.04

お城へいざ参ろう!  小沢城  調布三鷹の深大寺城と対峙した城

みなさん、こんにちは!
前回の第2城は調布支店の近くにある深大寺城を前後編にわけて取り上げました。
今回のお城へいざ参ろう!は「小沢城」編です。それでは参りましょう!
鶴若まる
鶴若まる

そもそも、何故今回「小沢城」を選んだかというと、前回までの「小野路城」「深大寺城」と関わりがあり、より知識を深めるにはぴったりのお城だからです!今回も前後編に分け、前編では「小野路城」、後編では「深大寺城」との関わりを中心にご紹介します。

 

前回の記事

小沢城がある場所

 

小沢城は、神奈川県川崎市多摩区と東京都稲城市の境にあり、近くにはよみうりランドやジャイアンツ球場があります。

 

多摩丘陸支脈の一画にあり、浅間山と天神山と呼ばれる2つの頂点を持つ尾根と、その南下に削ってつくられた平地で構成されたお城です。北側のすぐ下には三沢川が自然の堀の役割を果たしており、その先には多摩川があります。

 

鶴若まる
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丘陵とは、山より低いが平地よりデコボコで起伏のある地形のこと。(山と平地の中間)多摩丘陵は、高尾山の東側の八王子市館町辺りから始まり、川崎市登戸付近で南に折れ曲がり、横浜市西部まで続く長さ約40㎞、幅5~10m程の丘陵です。

 

小沢城の構造-守りのポイントは堀!-

 

※今回も地図は『東京都の中世城館主要城館編』を参考に描いています。

 

①入口は5カ所程ありますが、今回はジャイアンツ球場に向かう「よみうりV通り」沿いにある天神坂入口(下の写真)から入りました。入口から10分もかからない程で天神山に到着します!

 

②天神山の手前には、幅が最大15mを超える大規模な堀切があり、尾根を切断して敵が簡単に侵入できないように守っていました。階段を上ったところが天神山の頂点です。

 

下の写真は堀切を横から撮影したものですが、V字になっているのがわかるでしょうか?

 

 

➂堀切の南北の斜面には、竪堀(たてぼり)がつくられています。

竪堀とは、斜面に対して縦方向の堀のことで、敵の迂回を阻止したり、敵を分断して連携を取らせないようにする役割があります。

こちらも少しわかりにくいですが、斜面に沿って溝のようになっているのが竪堀です。

 

 

小沢城のように、堀切の端がそのまま竪堀となって斜面を下る例は多く、その関係性をわかりやすく表現すると、このような感じになります!(小沢城に似せていますが、実際とは異なるのでイメージとしての絵です…)

これでは、敵は尾根づたいに進むことも、横から簡単に回り込むこともできません。私が敵兵なら、「ここから攻めるのは無理だな」ときっと思っているでしょう…

 

➃浅間山を過ぎると尾根が細くなり、50m程進むと尾根がたわんだ部分(鞍部)があります。そこが堀切となっており、ここから天神山側の堀切までの東西約210mが小沢城の城域と考えられています。

浅間山については後編でお伝えします!

 

⑤天神山と浅間山の頂上部分はほとんど自然の地形のままで、郭としては整備されなかったようです。

通常は城の高い部分に主郭を置きますが、小沢城は天神山と浅間山に主郭を置かず、南側の山腹に郭を複数つくっている点が特徴的です。山頂部分は見張り場として使われたと考えられています。

写真は天神山の頂上

 

⑥浅間山に向かう途中には、古井戸の跡があります。深い穴でしたが、危険であることから付近にあった「つぶて石(城の防御投石用の石)」で埋めたと伝えられており、今は少し窪んでいるくらい(写真の木の根元あたり)になっています。

 

鶴若まる
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小野路城にも井戸がありましたが、やはり城には水源があることが重要だったということですね!

 

有力御家人「小山田一族」

 

小沢城は、鎌倉時代には小沢重政の居城であったと伝えられており、ここに「小野路城」との繋がりがあります。

小野路城は、重政の叔父にあたる小山田重義の居城といわれています。つまり、2つの城は同じ一族が持っていたということです。

たくさん名前が出てきてわかりにくいと思いますので、家系図(※1)を参考にしてみてください。

 

〇小山田一族とは

小山田有重の息子たち(主に稲毛重成と榛谷重朝)は、源頼朝に味方して治承・寿永の内乱(源平合戦)や奥州合戦(奥州藤原氏との戦い)に参加しており、頼朝から信頼を獲得した有力な御家人でした。また、重成は北条政子の姉妹を妻に迎えており、そうしたことからも小山田一族が重要視されていたことがわかります。

 

ちなみに、源頼朝は落馬が原因で亡くなったと考えられていますが、落馬したのは重成が亡き妻のために掛けた橋の橋の供養の式典の帰り道であり、重成は頼朝が亡くなる原因をつくってしまったのでした。
鶴若まる
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〇小山田一族の所領(※2)

・有重・重義など→小山田荘(町田市の大部分と川崎市西北部の一部) 小山田城と小野路城を築城。

重成・重政→稲毛荘(川崎市中原区・高津区一帯) 枡形城を築城。小沢郷(川崎市多摩区・麻生区、稲城市/稲田堤~新百合ヶ丘辺り)にも進出し、小沢城を築城。

・重朝→榛谷御厨(横浜市旭区二俣川から保土ヶ谷区にかけての一帯)

 

鎌倉へ向かう「鎌倉街道」には、「上道」「中道」「下道」の3本の主要なルートがありました。

小山田荘は上道の沿道、稲毛荘・小沢郷・榛谷御厨は中道と上道を結ぶ位置にあり、小山田一族の所領は鎌倉街道の主要ルートを押さえる要衝にありました。

 

小山田一族の没落とその後の小沢城

 

〇「畠山重忠の乱」と重成

有力な御家人として活躍していた小山田一族ですが、1205年「畠山重忠の乱」により小山田一族は没落してしまいます。重忠の息子を恨んでいた北条時政の娘婿が、畠山一族が謀反を企んでいると嘘の報告をし、舅の時政と示し合わせた重成が、いとこである重忠を裏切って嘘に加担したことで、畠山一族が攻め滅ぼされます。その後、重忠が無実であることが発覚し、重成・重政親子と重朝とその子供たちが殺され、小山田一族は没落しました。

重成は積極的に裏切ったのか、はめられて裏切ってしまったのか、実際にどれほど事件に関わったかはわかりませんが、武蔵国の支配を本格的にしたい北条氏の思惑(重忠・重成は武蔵国の実力者だったため邪魔な存在)や、幕府の次期将軍をめぐる思惑(時政の娘婿を時政は次の将軍にしたかった)に巻き込まれてしまった結果のようです。

 

鶴若まる
鶴若まる
この辺りは、おそらく2022年の大河ドラマで描かれるのではないでしょうか・・・!

 

〇その後の小沢城

重成死後、小沢城がある小沢郷は重成の孫娘に与えられました。その後は一族の小沢氏や別の一族が支配していたようで、次に小沢城が表舞台に登場するのは、室町時代となります。

室町幕府の初代将軍足利尊氏と弟の直義が争った「観応の擾乱」の際、直義方の最前基地であった小沢城は、1351年尊氏方に焼き払われたと書状に残っています。


今回はここまでです!

少し長くなってしまいましたが、小沢城と小野路城の繋がりがわかって頂けたでしょうか?

後編では「深大寺城」との関わりを明らかにします!

 

 

【参考】

『日本城郭大系第6巻』 新人物往来社 1980年

『東京都の中世城館主要城館編』 東京都教育委員会 2006年

『神奈川中世城郭図鑑』 戎光祥出版、2015年

『川崎市史 通史編1』 川崎市、1993年

『多摩市史 通史編1』 多摩市、1997年

『町田市史 上巻』 町田市、1974年

『神奈川県の地名』 平凡社、1984年

黒田基樹 『郡内小山田氏』 戎光祥出版、2013年

関幸彦 『武蔵武士団』 吉川弘文館、2014年

西股総生 『土の城指南』 学研パブリッシング 2014年

西股総生 『「城取り」の軍事学』 学研パブリッシング 2013年

小沢城址里山の会 https://ozawajousi.amebaownd.com/ (参照:2021年11月10日)

 

※1 親子・兄弟関係や名前は系図によって違いがあります。今回は下記を参考に作成しています。

黒田基樹『郡内小山田氏』 戎光祥出版、2013年

渡辺真治「榛谷重朝の基礎的研究―『吾妻鏡』を中心に―」 『神奈川県公文書館紀要』第7号、2019年

※2 現在残っている城の遺構は、室町時代など後世のもので、小山田一族が築いた城がどこにあったかというのは定かではありません。また、地図の所領の位置や鎌倉街道の位置には多少の差異がありますが、ご容赦ください。

 

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Writerこの記事をかいた人

鶴若まる

鶴若まる

BMW所属の学芸事務員、歴史学科を専攻し三度のフラペチーノより城郭が好きという強者。気になるものは必ず見届ける行動力を持つ。大好きな城は小谷城とのコメントからもうかがえるように,もはや後戻りできない戦国山城女子

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