2022.03.19

お城へいざ参ろう!  小沢城  ある崖上の名城 

鶴若まる
鶴若まる

みなさん、お久しぶりです!

今年最初のお城へいざ参ろう!は前回に引き続き「小沢城」編です。

 

 

前編では、天神山周辺のお城の構造と、「小野路城」との関わりについて紹介しました。後編では浅間山周辺と郭、そして「深大寺城」との関係について取り上げたいと思います!

 

にらみ合う城―「深大寺城」と「小沢城」―

 

今回はまず始めに「深大寺城」との関係について紹介します!

前編では室町時代初期の「観応の擾乱」の頃まで見てきましたが、戦国時代になると小沢城は後北条氏の城として登場します。

 

*1524年1月 後北条氏が扇谷上杉氏との戦いに勝利し、重要拠点であった江戸城を奪う

→もともと小沢城周辺地域は扇谷上杉氏方の勢力下だったようですが、これにより後北条氏の支配領域となり、小沢城も防衛拠点となったと考えられています。

*1526年9月 扇谷上杉氏と関東管領山内上杉氏に攻められ、小沢城が落城する

*1530年1月 再び扇谷上杉氏が小沢城を攻め落とす

*1530年6月 小沢原の戦いで後北条氏が扇谷上杉氏に勝利する

→小沢原の戦いの場所は正確にはわかりませんが、多摩区菅から麻生区細山・金程(稲田堤~新百合ヶ丘辺り)にかけての台地だったと考えられており、そこにある小沢城は後北条氏の砦として使用された可能性もあるようです。

1526年~1530年にかけては、扇谷上杉氏に小沢城は度々落城させられおり、扇谷上杉氏と後北条氏の攻防戦が繰り広げられていました。

しかし、1530年6月の小沢原の戦いで後北条氏が勝利したことをきっかけに、1534年以降は後北条氏が扇谷上杉氏を圧倒するようになりました。そして、扇谷上杉氏は南からの後北条氏の進軍に本格的に備えるべく、1537年に深大寺城を再興したというような関係性が見えてきます。

※今回も地図は『東京都の中世城館主要城館編』を参考に描いています

 

⑦浅間山

前編で紹介した「古井戸の跡」を通り過ぎて、2~3分歩くと、浅間山に到着します!

小沢城のなかで一番高い場所が浅間山で、標高90.8mとなっています。天神山と同じく、見張り台として使用されたと考えられており、この付近から防御投石用と思われる「つぶて石」が多く発見されたと言われています。

現在は木が生い茂っていて見えないところもありますが、ここからは府中や調布がよく見えます。

写真の木の隙間をよく見てもらうと、右端に高い建物があります。この辺りが調布で、調布支店もこの近くにあります。左端のほうには深大寺城も見えます。

深大寺城にも櫓台があったと考えられており、お互いに相手の動きがよくわかる状態であったことがわかります。同時期に城として使用されていた記録はありませんが、お互いに相手の動きを監視できる重要な城であったことが想像できます。

 

自然の地形を利用した城

 

⑧次は複数の郭がある平地へ向かいます!

ここにはA~Dの4つの郭があります。Aは7×30m程ある広い平地で、事実上の主郭と考えられています。浅間山とAの間には堀切と櫓台状の土塁がつくられています。Aの東側は横堀となっており、堀切とともに郭群を堀が囲むようになっているようです(地図の青い線のように)。

 

Aの郭は広くて、木漏れ日が心地よい場所なので、ゆっくり休憩するのにぴったりです!

 

上の写真は、堀切からAの郭方面を映したもので、手前の高い部分が土塁で、奥がAの郭です。土塁と堀(堀切)の組み合わせは、以前の深大寺城にもあったように、城の守りの基本です!

 

⑨ここで一旦、小沢城を外から見てみましょう。下の写真は北側(調布側)から見た小沢城です。

山の稜線の北側は急斜面になっており、すぐ下には三沢川が流れています。外から見ると自然の壁が続いているようで、まさに天然の土塁となっています。

 

小沢城は稜線を土塁に見立て、緩やかな斜面側を削りだして平坦面を造り、山頂は見張り場として使用されていたと考えられています。こうした形態は、軍勢を収容し作戦の起点とする陣城のような運用に適しているといいます。

 

鶴若まる
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陣城とは、領主が政務を執る根拠地的なものではなく、戦時のみ立てこもる砦のようなもの。防衛拠点・兵の駐屯地といったもので、戦国時代の日本に点在していた城の多くは、こうした陣城であったようです。

 

小沢原合戦と小沢城

 

小沢城に残されている遺構は、室町時代のものとされています。陣城的な構造というように、戦国時代の小沢原の戦いで使用されたとしても、砦といった程度だったと考えられています。実際使用されたかはわかりませんが、小沢城の南側の地域には小沢原合戦にまつわる地名などが残されており、今回はその場所についてもご紹介します!

 

①小沢原古戦場(麻生区金程1-13)/万福寺さとやま公園付近

金程・細山の伝承では、この辺りで小沢原の戦いがあったといわれています。

 

②勝坂(麻生区千代ヶ丘5丁目)

小沢原の戦いで扇谷上杉軍を打ち破った後北条軍が駆け上ったといわれる坂。実際に坂を上ってみると、とても見晴らしが良く、遠くには富士山や大山・丹沢山が見えます。勝ってこの景色を見たら、気持ちが良いだろうなと思うような景色です!

 

③将切/七国峠(麻生区千代ヶ丘8丁目)北側にあった窪地

小沢原の戦いの際、敗軍の将が切られた場所という言い伝えがありました。現在は地名等には残っていませんが、言い伝えがストレートに反映されていますね。

 

④陣川(麻生区古沢1~103辺り)

小沢原の戦いで陣が布かれたことから「陣川」と名付けられたと伝えられています。麻生川の上流のことを指しています。近くには高台になっている場所があり、そうした高台に陣を布いていたのかもしれません。

 

 

みなさん、小沢城いかがでしたか?

浅間山から深大寺城の方向を見ていると、深大寺城は想像以上に近く、また周囲の音もよく聞こえました。「ここから敵の進軍を確認していたのだろうか」「敵軍が動く音も聞こえるだろうな」などと想像力を膨らませてくれる場所でした。

扇谷上杉氏の「深大寺城」と後北条氏の「小沢城」、両方の城を見ることでその時代がわかる、そんな関係のお城でした。

 

ところで…大河ドラマ「鎌倉殿の13人」始まりましたね。前回ご紹介した「畠山重忠」(演:中川大志さん)なども登場しています。さて、稲毛重成は登場するのか、畠山重忠の乱はどのように描かれるのか、今後の展開に大注目です!

 

【参考】

『日本城郭大系第6巻』 新人物往来社 1980年

『東京都の中世城館主要城館編』 東京都教育委員会 2006年

『川崎市史 通史編1』 川崎市、1993年

『川崎地名辞典 下』 川崎市、2004年

中井均 『戦国の城の絵事典』 成美堂出版、2019年

竹井英文「戦国前期東国の城郭に関する一考察-深大寺城を中心に-」 『一橋研究』 一橋研究編集委員会 2009年

小沢城址里山の会 https://ozawajousi.amebaownd.com/ (参照:2022年2月23日)

 

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Writerこの記事をかいた人

鶴若まる

鶴若まる

BMW所属の学芸事務員、歴史学科を専攻し三度のフラペチーノより城郭が好きという強者。気になるものは必ず見届ける行動力を持つ。大好きな城は小谷城とのコメントからもうかがえるように,もはや後戻りできない戦国山城女子

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