2024.11.29

お城へいざ参ろう! 堀の迷宮 小机城 前編

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鶴若まる
鶴若まる

みなさん、こんにちは!

前回の第5城は、鶴若まるのルーツともいえる小谷城でした。

今回のお城へいざ参ろう!は「小机城」編です。それでは参りましょう!

 

 

小机城は神奈川県横浜市港北区にあるお城で、北側を鶴見川が流れ、さらに近くを南北に鎌倉街道が通っているという陸上と河川交通をつなぐ要衝に築かれていました。また、小机城の南の位置に神奈川湊があったことから、陸・川・海を通じた人や物の移動の結節点となっていました。築城された正確な年代は不明ですが、1400年代半ば頃につくられたと考えられています。

 

 

室町時代の関東とは?

 

小机城が文献上に初めて出てくるのが「長尾景春の乱」のときです。この「長尾景春の乱」どこかで見た覚えはありませんか?

実は第1城「小野路城」で少しだけ紹介していました。詳しくは紹介していませんでしたが、東京や神奈川の城を調べるうえで避けて通れないので、今回はご紹介したいと思います!

 

〇関東の支配の仕方

関東の支配は「鎌倉府」という機関が行っており、そのトップが「鎌倉公方」で、室町幕府第2代将軍の弟(足利基氏)の子孫が代々就任しました。

鎌倉公方の補佐役が「関東管領」で、上杉氏が務めました。上杉氏のなかでも、山内上杉氏が関東管領をあるときから独占して務めるようになり、扇谷上杉氏がその山内上杉氏に次ぐ立場となっていきました。

鎌倉府の独立性をめぐって室町幕府と鎌倉公方は対立しており、さらに鎌倉公方と関東管領も戦うような状況が続いていました。

 

 

鶴若まる
鶴若まる
「長尾景春の乱」が起きたときも、鎌倉(古河)公方と関東管領が幕府や関東各地の大名を巻き込んで戦っている最中でした。この戦いを「享徳の乱(1454~1482)」といい、ここから関東の戦国時代が始まったといわれています。

 

 

〇長尾景春の乱とは?

長尾景春の祖父と父は山内上杉氏の家宰として活躍していましたが、父が亡くなった後景春は家宰に選ばれず、景春の叔父の忠景が任命されました。

山内上杉氏の場合、家宰は世襲制ではなく、長尾一族のなかで家格もしくは政治的地位の高い人物が就任するものであったようで、当時忠景は長尾一族の長老的存在で、家宰に次ぐ政治的地位の「武蔵国守護代」という職に付いていました。※1

鶴若まる
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家宰は当主の代行したり、被官の代表となったりする存在で、権益を左右する強い影響力を持つ立場でした。山内上杉氏の家宰は長尾氏、扇谷上杉氏の家宰は太田氏が務めていました。

 

しかし、祖父と父が歴任したことから自分も続いて就任できるものと考えていた景春と、家宰を務める一族に従うことで権益を得ていた被官(家臣)や傍輩(同僚)たちは、これに強く反発し、1476年主君の山内上杉氏に対して反乱を起こします。

対する山内・扇谷上杉方は、扇谷上杉氏の家宰の太田道灌が中心となって乱の鎮圧を進めます。武蔵・相模各地で戦いとなりますが、1480年に景春方の日野要害が落城したことで、乱は収束します。

 

 

長尾景春の乱と小机城

 

小机城の地域は家宰となった叔父・忠景の所領でした。1473-76年頃と推定される小机の年貢の徴収に関する忠景の書状には、現地代官・成田氏が作物の皆損で年貢を納められないと言ってきたのに対し「2年前に小机に滞在したときに豊凶によらず納入するように取り決めたので、全額納めさせなさい」と徴税の取りまとめ役に命じています。それ以前については不明ですが、もとは家宰領で景春一族の管轄だったとも考えられています。※2

しかし、長尾景春の乱が起きると景春方が攻めて手に入れたようで、景春方の城となっていました。

↓南東側から見た小机城

 

*1477年4月 扇谷上杉氏の河越城を攻めるため、景春方の矢野兵庫助が小机城から出陣する

→4月10日 矢野と小机城の兵は、討って出てきた河越城の扇谷上杉軍と合戦になり敗北する。

→その後、成田氏を城主と記したものもあり、現地代官であった成田氏が景春方に味方して小机城を守っていたともいわれています。※3

 

*1478年1月 景春に味方する豊島氏が小机城に逃げ込んでくる

→1月25日に太田道灌が豊島氏の平塚城を攻め落としますが、豊島氏は平塚城から逃げ延び、その後小机城に逃げ込みます。小机城には景春に味方する者たちが立て籠もりました。

 

 

*1478年1月28日 道灌が小机城攻めのために近くに着陣する(2月6日にはさらに陣を進めた可能性)

→道灌は鶴見川北方の亀甲山に陣を敷き、小机城と対峙しました。亀甲山陣城を築いて対峙したといわれていますが、遺構などは見つかっていません。

↑亀甲山付近から見た小机城(中央の小高い山)

 

*1478年4月10日 小机城落城

→2ヶ月以上にらみ合いが続き、景春も小机城の救援のため味方を向かわせようとしますが実現せず、道灌が小机城を落城させます。

 

その後、後北条氏の城として登場するまでの間については、扇谷上杉氏の領国になったのか、長尾忠景とその息子や成田氏による支配が続いたのかなど詳細はわかりませんが、山内・扇谷上杉方のものであったようです。

ただ、後北条氏の家臣の所領などのリストには、小机の一部地域に「元成田衆知行」と書かれており、そこは成田氏が小机支配のため家臣に与えた土地と考えられ※4、後北条氏の侵攻で成田氏が離れると、そのまま後北条氏に組み込まれていったとも考えられています。※5

 

 

3つの曲輪が並ぶ城

 

小机城の主要部は、東西に並列して配置された3つの曲輪が土橋状の連結路で繋がっており、この3つの曲輪を巨大な横堀が囲っています。東曲輪と西曲輪どちらが主郭であるかは意見が分かれています。

第三京浜道路で隔てられた西方は新城山と呼ばれ、近世の富士塚があるものの、明確な築城遺構はありません。道路貫通以前の略図では、新城山と西曲輪の間は鞍部が掘り切られているように見えるそうです。

※『神奈川中世城郭図鑑』を参考にしています

 

①東曲輪

3つのなかで最も大きい曲輪で、最大で南北約97m・東西約48mあります。長方形に近い平面ですが、西曲輪に比べると不整形で曲線部も多いため、比較的古い時代の姿を残しているとも考えられています。

南側に虎口があり、周囲は高さ1.6m幅5m程の土塁で囲まれていたようですが、今は削り取られ西側に一部残っているのみです。南西端には高さ2.5mの櫓台が残されています。

↑東曲輪の外の空堀から見た櫓台(中央の少し高くなっている部分)堀底から見ると、とても高い位置から狙われている感じがします。

 

2021年と2022年に発掘調査が行われ、東の曲輪からは様々な大きさの柱穴とみられるものが多数見つかりました。2つの柱穴を調査してみると、深さは約60cm~1mあり、丁寧に掘り込まれていました。掘立柱建物が建築されていたことが想定され、柱穴の配置が重複していることから、建てられた時期に差があることが確実とされています。

↑東曲輪(櫓台側から曲輪内を見た写真)

 

鶴若まる
鶴若まる
時代が異なる建物跡が見つかったことで、どちらが主郭であるか、また築城年代の解明などに繋がっていくことが期待されます!

 

 

②中曲輪

東西約8m・南北約60mと南北に細長く、高さは東西の曲輪よりやや高くなっています。発掘調査は行われておらず、建物があったかなどは不明です。用途などはわからない曲輪ですが、行ってみると東西の曲輪の間にある壁のようで、どの方向から敵が来ても狙える「防御」に適した場所だと感じました。

 

③横堀

3つの曲輪を囲う横堀は、幅が広いところで20mを超え、さらに深さもあるため敵の侵入を防ぐ強力な障害になっていたようです。

小机城は掘底を歩くことができるので、その様子をお届けします!歩いているのは地図の青い矢印部分で、左側が東曲輪、正面の壁になっているのが中曲輪です。ぜひ小机城を攻める足軽の気持ちで堀底を歩いてもらえると、楽しいと思います!

 

 

2021年に西曲輪の北側部分の堀の発掘調査が行われました。堀底までたどり着くことはできませんでしたが、堀の壁面はとても丁寧に整えられていたそうです。堀の上部の斜度は約35°、下部は約49°で、堀の底にいくにつれて斜度がきつくなっていたことがわかりました。

 

④腰曲輪

横堀の外側には、たくさんの腰曲輪があります。どの程度旧態を留めているかはわかりませんが、本来の登城路はこれらの腰曲輪を経由していたとみられています。

東曲輪の南には東西12m・南北20m程の平坦面があります。また、北東側と南東側には横堀の外側に独立して戦うことができる櫓台があり、南東側は尾根に2か所堀切を設けています。

 

今回はここまで!

小机城の堀はとても立派で、曲輪を囲う横堀の規模感に驚きました!高い壁に囲われた迷路のような堀底を歩きながら、左右の上から狙われていることを想像すると、はたして生き残れるのだろうかという気持ちになりました。

また、室町時代の関東はたくさんの勢力が敵味方に分かれて戦っており、少し理解するのが難しいですが、いかがでしたか?第1城小野路城編も、今回を踏まえて内容を更新してみましたので、興味のある方はぜひご覧ください!

次回は、後北条氏の城としての小机城の歴史と西曲輪をお届けします!

 

参考文献

『神奈川中世城郭図鑑』 戎光祥出版、2015年

『日本城郭大系第6巻』 新人物往来社 1980年

黒田基樹『太田道灌と長尾景春』 戎光祥出版、2020年、※1)86P~87P、93P

黒田基樹『論集戦国大名と国衆7武蔵成田氏』 岩田書院、2012年、※2・※3)10~11P

黒田基樹『北条氏綱』 ミネルヴァ書房、2020年

山田邦明『敗者の日本史8享徳の乱と太田道灌』 吉川弘文館、2015年

池上裕子「戦国期武蔵国小机領と周縁地域」『都筑・橘樹地域史研究3』 都筑・橘樹研究会、2020年、※4)37P

横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター『神奈川県横浜市港北区小机城跡令和3・4年度小机城埋蔵文化財試掘調査報告書』 横浜市教育委員会、2024年、※5)69P

横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター『小机城を明らかにー小机城埋蔵文化財試掘調査についてー』 横浜市教育委員会、2021年

Writerこの記事をかいた人

鶴若まる

鶴若まる

BMW所属の学芸事務員、歴史学科を専攻し三度のフラペチーノより城郭が好きという強者。気になるものは必ず見届ける行動力を持つ。大好きな城は小谷城とのコメントからもうかがえるように,もはや後戻りできない戦国山城女子

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