2023.01.29

お城へいざ参ろう! 湖畔に聳える山城 津久井城 後編①

 

鶴若まる
鶴若まる
ごぶさたしてます!2023年最初のお城へいざ参ろう!は前回に引き続き「津久井城」編です。

 

前編①と②では、津久井城の構成と歴史について紹介しました。

後編では、根小屋部と詰城部それぞれどのようになっていたのかを詳しく見ていきます!

見どころが沢山あるため、後編も①根小屋部、②詰城部と分けてお伝えしていきます。

 

城主が暮らした場所

 

西南麓にある「御屋敷」と呼ばれる大きな曲輪は、戦国時代に城主であった内藤氏の屋敷があった場所とされています。現在の広さは東西約73m・南北約67mとなっています。

ここからは建物や焔硝蔵(火薬庫のこと)、土塁や堀、水路などが見つかっています。曲輪自体は1500年代の初めに造られましたが、1500年代後半の天正期(1573~1592)に拡張や建物の構築が行われるなど、大きく造り替えられたと考えられています。

 

 

↑天正期以前の「御屋敷」想定図

 

〇1号土塁

曲輪が造られた当初からある土塁で、現在も一部が残されています。

(中心から少し右側の小高くなっている部分が1号土塁の一部です。)

 

 

○1号堀

上幅2.5~3m、底幅1.5m、深さ2.3~2.9mの「箱堀」で、1569年の三増峠の戦い後の改修時に掘られたとも言われていますが、正確な時期は不明です。出土した遺物などから、天正期に曲輪内で火災があり、それをきっかけに埋め立てられたと考えられています。1号堀を埋め立てた後、曲輪は北側と南側に拡張されます。

 

 

↑天正期の「御屋敷」想定図

 

 

御屋敷の奥側の高台になっている「馬場」と呼ばれる場所から見た御屋敷(柵の奥)

見取図とは向きが逆になりますが、このようになっていました。

 

〇掘立柱建物と礎石建物

戦国時代の建物の多くは、直接地面に穴を掘って柱を建てる「掘立柱型式」で造られていました。御屋敷の建物は何度か建て直されており、6棟分の掘立柱建物跡が見つかっています。また、礎石の上に柱を建てた「礎石建物」も時期の異なる2棟分が見つかっています。

これらは執務や就寝のための建物、鍛冶工房などであったと考えられています。そして、石を池の形状に組んだ跡も見つかっており、庭園も造られていたことがわかっています。

 

〇焔硝蔵(えんしょうぐら)

3m×4mの長方形をした半地下式の遺構が見つかりました。床は石や砂利が敷き詰められ、壁は粘土で覆われていた形跡があり、さらに北側を2号堀で守っているといった入念な構造であったことから、火薬を保管する焔硝蔵であったと考えられています。2号堀と焔硝蔵も天正期に構築された可能性が高いものです。

 

○東側虎口

東側虎口は2号堀・焔硝蔵と同時期に整備されたと考えられています。幅6mあり、両側に石垣が築かれた立派なものであったようで、城主の屋敷にふさわしい「威信」を表現した虎口であったと評価されています(1)

 

鶴若まる
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どれもいつ造られ、いつ壊されたのかを断定はできませんが、前編➁で紹介した1582年に修繕計画を見た北条氏政が根小屋部の修繕に専念するように命じた際に行われたものも、もしかしたらあるのかもしれませんね!

 

まだまだ調査途中

 

津久井城落城後、御屋敷には「陣屋」に関連する施設が設けられたと考えられています。

城は廃城となりましたが、1608年には幕府直轄領となった津久井を統治するため、代官が置かれました。代官が駐在する場所である「陣屋」に関連する施設を設けるため、江戸時代初期に曲輪を大きく造り替えたと考えられていました。

しかし、再調査が行われるなかで、これまで江戸時代の遺構だと思われていたものが、戦国時代の遺構だと考えられるようになってきています。実は先程紹介した「1号堀埋め立て後の北側と南側への曲輪の拡張」や「礎石建物」も江戸時代のことだと考えられていました。

 

ここでポイントとなるのが前編でお伝えした「かわらけ」です!

拡張された曲輪の北側から、後北条氏特有の手づくね成形かわらけが出土したり、礎石建物から天正期と推定されるかわらけが一緒に発掘されていることなどが再調査により明らかになりました。

その結果、曲輪を大きく造り替えたのは江戸時代初期ではなく、戦国時代のことだと考えられるようになってきています。

 

ちなみに…

御屋敷の隣には「おじんや」と呼ばれている場所があります。ここに陣屋があったと言われており、18畳ほどの部屋2つと8畳間が3つもある大規模な礎石建物跡が見つかっています。

 

鶴若まる
鶴若まる
この調査結果が発表されたのは2020年のことです!まだまだ調査が続けられており、たくさんの新たな発見がされています。今後の発見に期待です!

 

庭園に特化した曲輪の発見!

 

「御屋敷」と同じ西南麓にある城坂曲輪群の第5号曲輪は、発掘調査の結果、庭園として利用されていたことがわかりました。Y字もしくは心字状の池があったようで、後北条氏の支城で庭園に伴う池が発見されているのは八王子城などの拠点的な城に限られています。

それだけでなく、この第5号曲輪の庭園は他とは違う特別なものでした!

津久井城の「御屋敷」に造られた庭園のように、後北条氏の領国内では、庭園は城主や重要人物の居住空間がある曲輪のなかに造られています。しかし、第5号曲輪は庭園に特化した曲輪となっています。

織田信長などの大大名が居住空間とは別に庭園に特化した曲輪を築いており、そうした庭園に特化した曲輪が後北条氏の拠点的な支城で発見された成果は大きいといいます。

 

 

 

池のほとりには泉殿(小さな建物)や築山(人工の山)が設けられていたと考えられています。

また、石を組んで滝を表現していたようで、滝から池へ水が流れていくようになっていたようです。

 

○何故造られたのか?

出土したかわらけなどから天正期に庭園が造られたことがわかっており、1585年頃の4代綱秀から5代直行への家督相続をきっかけに、隠居した綱秀の屋敷として第5号曲輪の庭園が造られたと想定されています。また、庭園だけが造られたのではなく、第5号曲輪の上段の第7号曲輪が居住用の曲輪として一緒に整備されたのではないかと考えられています。

 

①手前が庭園があった第5号曲輪、一番奥の高い部分が第7号曲輪

 

➁第7号曲輪から第5号曲輪を見たもの

 

○何故壊されたのか?

発掘調査により、同じ天正年間という短期間のうちに庭園を壊し、曲輪を拡張する普請が行われたことがわかっています。1590年の小田原合戦に向けて、小田原城や支城では普請が急いで行われており、小田原城でも北条氏政の屋敷の庭園を壊して兵站地にしていることから、第5号曲輪の庭園も豊臣氏との戦いへの対応として壊されたと考えられています。

鶴若まる
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城坂曲輪群についても、引き続き発掘調査が行われています。

2021年11月~12月には、第5号曲輪と第7号曲輪の間にある第6号曲輪の発掘調査が行われています。第5号曲輪と同時代の遺構は見つからなかったようですが、今後第6号曲輪で見つかった遺構の時期や用途の検討、さらに第7号曲輪の発掘調査も行われる予定だそうです!

 

 

今回はここまでです!

これまでのお城とは違い「屋敷」や「庭園」などが沢山登場しました。

堀や土塁など戦いのためのものに注目しがちですが、一方でお城は生活する場所でもあったことを感じてもらえれば嬉しいです!

 

 

参考

『津久井町史 通史編 原始・古代・中世』 2016年、相模原市

『津久井城ものがたり』 2018年、神奈川県公園協会

『津久井城跡資料調査報告書 御屋敷曲輪の再評価』 2020年、相模原市立博物館

『津久井城跡 城坂曲輪郡1~5号曲輪の市民協働調査』 2021年、相模原市立博物館

相模原市立博物館の職員ブログ(参照:2022年12月17日)

https://www.sagami-portal.com/city/scmblog/archives/27966

(1) 『津久井城跡資料調査報告書 御屋敷曲輪の再評価』 96頁 、2020年、相模原市立博物館

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Writerこの記事をかいた人

鶴若まる

鶴若まる

BMW所属の学芸事務員、歴史学科を専攻し三度のフラペチーノより城郭が好きという強者。気になるものは必ず見届ける行動力を持つ。大好きな城は小谷城とのコメントからもうかがえるように,もはや後戻りできない戦国山城女子

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