2024.07.15
お城へいざ参ろう! 幸せな記憶と共に消えた悲しみの城 小谷城⑤
前回は小谷城落城までの歴史と、東側尾根の堀切より北にある曲輪について紹介しました。今回は落城後の小谷城がどうなったのかと、生き残ったお市と三姉妹がどのように生きたのかを紹介していきます!それでは、いざ参りましょう!
秀吉と小谷城
ドラマや映画の影響もあり、落城の際に小谷城が炎上しているイメージがある方もいるかと思いますが、発掘調査で焼土は見つかっておらず、落城で建物が燃えていないことが明らかになっています。
小谷城の落城後、浅井氏の領地は秀吉のものとなりました。1575年8月13日には信長が秀吉の小谷城に宿泊したという記録があり、落城から3年ほど小谷城は秀吉の城として存在していたようです。
1576年に秀吉が長浜城を完成させたことで、小谷城は廃城になったとみられます。石垣の崩落部分は秀吉による破城の痕跡という見方があり、また小谷城の石材は長浜城築城の際に使われたともいわれています。
秀吉が長浜城に移ると、小谷城下町の商人や寺院は長浜城下に移されたと考えられています。
①で紹介した清水谷の奥にあった浅井氏の菩提寺の徳昌寺(徳勝寺)は、秀吉によって長浜城内に移され、何度か移転し現在は長浜市平方町にあります。長浜へ移転し江戸時代になっても浅井氏の菩提寺として法要を行っており、境内には亮政・久政・長政の墓があります。
清水谷入口かつ西側尾根の斜面に接した場所にあった知善院も長浜に移されたようで、現在は長浜市元浜町にあります。ここには茶々が初の夫である京極高次に宛てた書状が残されています。また、表門は長浜城の搦手門を移築したものといわれています。
移された小谷城
廃城となった小谷城ですが、その一部とされるものを別の場所で見ることができます。
これは小谷城の山門と伝わる門で、小谷城の近くにある実宰院にあります。実宰院は長政の姉の見久尼が中興した寺で、茶々が寄進したという見久尼の木像などが残されており、三姉妹と繋がりがあったとみられています。
ちなみに、落城の際に長政は三姉妹の養育を見久尼に依頼し、見久尼は織田軍の残党狩りから三姉妹を守って養育したという伝承が残っています。お市と三姉妹は、実宰院の北の田根の谷を通って実宰院へ逃げたという伝承もあり、月所丸から田根の谷に至る搦手は比較的安全なルートであったといいます。
こちらは小谷城の天守を移築したと伝わる彦根城西の丸三重櫓で、重要文化財に指定されています。小谷城から移築したと伝えられていますが、昭和30年代に行われた解体修理では、移築の痕跡は確認されず、柱や梁などの8割近くが1853年(江戸時代後期)の大修理で取り替えられていることが判明しているため、現在の姿は江戸時代後期のものと考えられています。
お市と三姉妹のその後
小谷城落城後、お市と三姉妹は叔父で尾張(愛知)守山城主の織田信次に預けられたようで、1574年9月に信次が亡くなると、信長に引き取られ岐阜城で生活したと考えられています。※1
〇お市のその後
1582年6月2日本能寺の変で信長が亡くなると、お市は織田家重臣の柴田勝家と再婚します。
織田家の主導権争いのなかで、信長の三男(信孝)がお市に好意を持つ勝家を味方につけるために話を進めたといわれています。また、織田家を勝家と秀吉が支えていくにあたり、秀吉は信長の息子を養子にして織田家と結びつきをもっていたため、6月27日の清洲会議で勝家にはお市を嫁がせることを決めたとも考えられています※2。
再婚後、お市と三姉妹は勝家の北ノ庄城(福井県)に移ります。しかし勝家と秀吉は対立を深め、1583年4月21日の賤ヶ岳の戦いで勝家は秀吉に敗れます。勝家は北ノ庄城に敗走しますが、秀吉に北ノ庄城を包囲されます。
お市は小谷城から退去したことを後悔していたため、勝家と自害することを決めたといいます。そして、秀吉は信長に厚恩をうけているため三姉妹を悪いようにはしないと考えたお市は、秀吉に書状を書き、三姉妹を城から退去させたといいます。その後4月24日にお市は勝家とともに自害し、北ノ庄城は落城となりました。
〇茶々のその後
北ノ庄城を退去した後、三姉妹がどこにいたのかは不明です。安土城にいたとみられていますが、茶々は同年8月までには秀吉の正妻(おね)と一緒に姫路城もしくは山崎城に移ったようで、初と江も一緒だったと思われます※3。1584年8月に大坂城の本丸が完成すると、その後移ったとみられます。
茶々は引き取られてすぐに秀吉から結婚を申し入れられると、まず妹たちの結婚を取り計らってもらうことを条件に承諾したといいます。1586年10月までに(少なくとも1588年初めまで)秀吉の別妻になると、1589年に鶴松(1591年死去)、1593年に秀頼を産みます。
茶々が鶴松を懐妊した際、秀吉は淀城を大改築し産所として与えました。ここから茶々の呼称に「淀」とつけられるようになり、「淀の方」や「淀殿」と呼ばれるようになります。茶々が与えられた淀城の跡地と推定される場所には、現在妙教寺(下の写真)があります。
1598年8月に秀吉が亡くなると、茶々は大坂城で秀頼の後見役として豊臣家を支えますが、関ケ原の戦いの後に江戸幕府が開かれると、豊臣家が主家として存在し、徳川家が天下人として政務を行うという微妙な状況が続きます。
↓大阪城の天守。豊臣家滅亡後に徳川によってつくられた「徳川の天守台」の上に、大坂夏の陣図屏風などをもとに1931年に建てた「豊臣の天守」がのっている状態です。
ついに豊臣家と徳川家が争うこととなり、1614年11月26日に大坂冬の陣が勃発します。茶々は大きな発言権を持っていたようで、家臣に指示をしたり、家中の問題に対して判断を下すこともあり、「城内では全て茶々が仕切っている」と書かれた記録もあります。
冬の陣は12月20日に和睦となりますが、翌年3月に豊臣家に不穏な動きがあるとなり、5月6日に大坂夏の陣が始まります。次々に豊臣方の諸将が討死し、5月8日に茶々は秀頼とともに大坂城天守下の山里郭の糒蔵で自害しました。
〇初のその後
1586年までに(1587年説あり)従兄妹である京極高次に嫁ぎます。京極家は浅井家の主家であり、高次は姉(妹とも)の竜子が別妻になった関係で秀吉に仕えていました。
1600年関ケ原の戦いの際、高次は東軍につくことを決め、大津城で西軍1万5千人を迎え撃ちます。関ケ原の戦い前日の9月14日に大津城は開城しますが、西軍の一部を足止めさせた功績で、のちに家康から若狭8万5千石を与えられ、小浜城に移ります。
↑彦根城の天守は、大津城の天守を移築したと伝えられています。大津城は落城しなかった「めでたい天守」であるとして、家康の指示で移築したといいます。
1609年5月に高次が亡くなると、初は出家し常高院となります。
大坂冬の陣では、大坂城内にいた初は豊臣方の交渉役として、徳川方の阿茶局(家康側室)と和睦の協議をします。大坂夏の陣が起きる前には、茶々の使者として困窮する豊臣方の意向を家康に伝え、豊臣家の不穏な動きを指摘する家康から和平の使者として豊臣方に条件を持ち帰る役割を担いました。
大坂夏の陣でも大坂城内に留まりますが、落城前日の5月7日に大坂城を退去しました。その後は江戸で生活し、1633年8月27日に江戸で亡くなります。
〇江のその後
経緯や時期は諸説ありますが、1584年に佐治一成(母方の従兄妹)との婚約が、一成が没落したことで秀吉によって破談とされます。その後、1586年頃(1585年・1592年説あり)に秀吉の甥の豊臣秀勝に嫁ぎ長女が生まれますが、1592年9月に秀勝と死別します。
1595年9月17日に徳川家康の三男である秀忠と再婚します。秀吉は徳川家と姻戚関係で繋がっておきたい、秀頼に豊臣家を継がせるにあたり人脈固めをしたいという思惑があり、江を養女として6歳年下の秀忠に嫁がせたようです。再婚後は伏見で生活していましたが、1599年12月以降は江戸城本丸や西の丸で暮らします。
↑江戸城の本丸があった場所で、現在は皇居東御苑として整備されています。現在皇居として使用されている場所に西の丸がありました。
1605年4月に秀忠が江戸幕府第2代将軍になると、将軍家の御台所として江戸城大奥を統括する役割、人質として江戸にいる大名の正室と交流し将軍家と大名家の繋がりを強化する役割を担いました。秀忠との間には二男五女(諸説あり)が生まれ、江は将軍の母・天皇の祖母となり、1626年9月15日に江戸城の西の丸で亡くなります。
〇最後に
1594年茶々の願いにより、長政の菩提を弔うため「養源院」が京都(東山区)に建立されます。長政の法号が寺の名前となっており、1619年に火災で焼失しますが、1621年に江によって再建されます。
養源院の説明によると、牡丹の間の厨子に納められている弁財天は、琵琶湖にある竹生島の弁財天のうつしで、小谷城落城時に長政からお市へ、北ノ庄城落城時にお市から茶々へ、大坂城落城時に茶々から初を介して江へ渡されたものと伝わっているそうです。
竹生島の弁財天は日本三弁財天のひとつで、60年に一度ご開帳されます。ちなみに竹生島へはフェリーで行くことができます。
竹生島の宝厳寺唐門は、大坂城の本丸と二の丸の間にあった極楽橋が移築されたもので、現存している唯一の豊臣時代の大坂城の遺構です。
全5回お届けした小谷城編もここまでとなります!鶴若まるのルーツともいえる小谷城の魅力は感じていただけたでしょうか。
小谷城へ行く際は、登山やトレッキングができるような装備で、かつなかなか出会うことはありませんが熊や猪など野生動物に注意が必要です!ただ、所々に案内板や説明板があり、とてもわかりやすくなっているので(参考にさせていただきました)、浅井氏の栄光と没落を見届けた小谷城にぜひ行ってみてください!
参考文献
太田浩司『浅井長政と姉川合戦』 サンライズ出版、2023年
黒田基樹『お市の方の生涯』 朝日新聞出版、2023年 ※1)127~129P ※2)143~146P ※3)183・186P
黒田基樹『羽柴家崩壊』平凡社、2017年
福田千鶴『江の生涯』中央公論新社、2010年
福田千鶴『淀殿』ミネルヴァ書房、2007年
福田千鶴『大奥を創った女たち』吉川弘文館、2022年
小和田哲夫『お江―戦国の姫から徳川の妻へ』角川学芸出版、2010年
※3)山崎城へ移ったとするのは、福田千鶴「高台院(浅野寧)に関する素描五点」(『九州文化研究所紀要』65、2022年)
※4)11月8日千世宛芳春院消息(前田土佐守家資料館『図録芳春院まつの書状』2017年、92P)
小和田哲男『浅井長政のすべて』 新人物往来社、2008年
中井均『近畿の城郭Ⅱ』戎光祥出版、2015年
長浜市長浜城歴史博物館『歩いて知る浅井氏の興亡』 サンライズ出版、2008年
長浜市文化財保護センター『史跡小谷城跡保存管理計画書』 2014年
彦根氏教育委員会文化財部文化財課『特別史跡彦根城石垣総合調査報告書』2022年
三浦正幸『お城のすべて』 ワン・パブリッシング、2020年
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