2026.07.06
お城へいざ参ろう! 後北条氏の築城術が詰まった城 山中城後編
みなさん、こんにちは!
今回も前回に引き続き「山中城」編をお届けします!
前編では、豊臣秀吉が攻めてくる直前までの歴史と、岱崎出丸や本丸の構造、特徴的な障子堀などについて紹介しました。後編では山中城の戦いと、北ノ丸・西櫓などについて紹介していきます!それでは参りましょう!
北と西にも広がる曲輪
⑦北ノ丸
天守櫓跡に次いで高い位置にある曲輪で、面積は1920㎡あり、堀を掘った土を尾根の上に盛土して平坦面が作られています。
↓北ノ丸。左奥には本丸との間に架かる木橋があります。
現在は2m以上埋められていますが、北ノ丸を囲う堀は深さがあり、さらに本丸側を除いて三方を土塁で囲む構造になっているため、重要な曲輪であったことが考えられます。
↓北ノ丸を囲う堀。上から撮影しているためわかりにくいですが、現在もかなり深さがある立派な堀です。
⑧元西櫓
周囲を堀に囲まれた小さな曲輪で、曲輪内は堀を掘った土を1m程の厚さに盛土して平らに整地されています。当初名称が伝わらないため「無名曲輪」と呼ばれていましたが、調査結果から「元西櫓」と命名されました。
↓二ノ丸から見た元西櫓。奥には西ノ丸が見えます。
命名のきっかけになった調査結果を見つけることはできませんでしたが、築城された頃の山中城は元西櫓と三ノ丸までで、1587年頃に西ノ丸・西櫓・南櫓の普請が行われたとも考えられており※1、当初は城の先端の西櫓であったものの、修築により先端ではなくなったことを踏まえ「元」となったのかもしれません。
⑨西ノ丸
3400㎡の広大な面積を持つ曲輪で、西櫓側にある見張り台は下から盛土を積み上げたもので、ここを中心に三方を土塁で囲んでいます。見張り台からは二ノ丸や西櫓など様々な曲輪を見ることができます。
↓見張り台から見た景色。手前の大きな曲輪が西ノ丸で、奥に元西櫓・二ノ丸が見えます。
西ノ丸や兵糧庫跡からは、中国産の陶磁器や国内産の瀬戸焼・美濃焼など日常生活用品が比較的多く出土し、居住施設が存在していたことがわかりました。一方、西櫓や岱崎出丸などからは量は多くないものの刀・火縄銃・甲冑の部品など武器・武具類が出土しており、曲輪の利用方法が違うことが示されました。
↓西ノ丸。奥の高くなっている部分が見張り台です。
また、堀底や曲輪内からは多数の鉄砲玉や、少量ではあるものの大筒玉が出土しており、後北条氏が鉄砲だけでなく大砲も持っていたことがわかりました。一方、土塁上や堀底から多数の石つぶて(敵にぶつけて攻撃する石)が出土しており、原始的な投石から最新の鉄砲や大砲まで様々な攻撃方法を用いて戦っていたことがわかります。
⑩西櫓
西ノ丸から堀を超えて前に突き出ている西櫓は「角馬出」となっています。虎口から堀を挟んだ対岸に土塁で囲われた小さい曲輪を「馬出」といい、平面が四角形なものを「角馬出」、半円形なものを「丸馬出」といいます。
馬出を独自に創案したのは後北条氏や武田氏などで、1558年~1569年の永禄年間に完成された馬出が出現したと考えられています。後北条氏は「角馬出」、武田氏は「丸馬出」が特徴です。
防御するときは西ノ丸で、攻撃に出るときは西櫓を基点に攻撃態勢を取ったと考えられています。西櫓から西櫓の堀(単列の障子堀)を超えるには、徒歩であれば北側の木橋、馬に乗っていたら南側の土橋を渡って出撃したとみられています。
ただ、西櫓は出撃拠点ではなく、障子堀で動きが制限された敵を鉄砲などで狙うための堡塁として機能したとも考えられています。※2
↓西ノ丸見張り台から見た西櫓
西ノ丸と西櫓の間の橋が発掘調査で見つかっていないことや、面積が狭いことから、西櫓は攻撃のために兵や馬を配備した曲輪ではなく、鉄砲の有効射程(30間=約54m)を外すための「空曲輪」であったという見方もあります。※3
↓西櫓の堀の北側で、こちら側には木橋があったようです。
渡辺勘兵衛が思い出す山中城の戦い
*1590年3月1日 小田原攻めのため豊臣秀吉が京都から出陣する
→既に2月25日頃から徳川軍など先鋒が伊豆・駿河の国境付近に展開を始めており、秀吉は3月27日には沼津へ到着して廃城となっていた長久保城に入ります。
→3月28日に山中城と韮山城が見える場所(地域)で作戦会議が行われました。
一方の後北条方は、戦いの10日程前に山中城の松田康長は箱根権現に対し「敵が動くのを待ちながら準備している間に城の防備も堅固になった」と書状を送っており、城の普請を行いながら近づく戦いに備えていたようです。
*3月29日朝 豊臣方の各部隊が山中城の攻め口に到着
東海道を攻め登ってきたのは、秀吉の甥である豊臣秀次が率いる約3万5000人で、大手口の攻略を一柳直末、岱崎出丸の攻略を中村一氏が担当しました。西ノ丸方面は徳川家康などが担当しました。
中村一氏の配下にいたのが渡辺勘兵衛了という武士で、山中城の戦いでの自身の行動や見聞きしたことを後年書き記しています。今回は勘兵衛が書いた「渡辺水庵覚書」をもとに、山中城の戦いの経過を見ていきます。なお、「覚書」の解釈は『戦国の軍隊』と『三島市埋蔵文化財発掘調査報告ⅩⅩⅠ』を参考にしており、三ノ丸の奥側を二ノ丸としてご紹介します。
「覚書」には記憶が曖昧になっていたり、意図的に美化していたりする内容が含まれている可能性があります。また、勘兵衛が記した場所が城のどこに当たるのか判断が難しい部分などもあります。
〈城攻めの準備〉
*朝から即席の攻撃陣地を造り、鉄砲で攻撃しながら前進して次の攻撃陣地を造ることを繰り返して城に近づいていたものの、城内から銃撃されていたようで、なかなか岱崎出丸に迫れない状況となる。
*昼過ぎに秀吉が岱崎出丸まで八町(約872m)の位置に指揮所を置き、もう少し城に近づくように指示を出す。
*勘兵衛は最前線の陣地まで進み、岱崎出丸の方を見ると、城内から鉄砲がつるべ撃ちされ、鬨の声があがる。
↓岱崎出丸から東海道方面を見た景色。攻めてくる豊臣方に対して、ここから鉄砲を撃ったのでしょうか…
〈開戦〉
*勘兵衛は急襲によって岱崎出丸を攻略できると一氏に進言し、馬で駆けて攻め込むと、豊臣方の他の兵50人ほどが鬨の声をあげて堀(城に近づくための塹壕?)に飛び込む。
*勘兵衛が岱崎出丸の大手口寄りの端の塀をよじ登ると、法螺貝の音が響いた。
→城へ突入し始めたのを見た秀吉が全軍に総攻撃を命じ、正式に戦いが始まりました。
→秀吉は留守居の諸将への書状に「山中城を攻めて午刻(正午頃)に乗り崩した」と書いていることから、正午頃には山中城が落城したと説明されますが、城に突入したこの時点のことを指しているとも考えられています。※4
*岱崎出丸の城兵は塀の下の敵に忙殺されていたようで、大きな攻撃を受けずに勘兵衛は城内に侵入し、三ノ丸へ向かう。
三ノ丸の防備が固かったようで、それを知っていた城兵たちは三ノ丸に向かった勘兵衛たちではなく、岱崎出丸の塀の下の敵を攻撃していた可能性もあるようです。※5
〈三ノ丸の攻略〉
*三ノ丸門がくし(馬出となっている南櫓?)にあけしほり(バリケード?)があり、勘兵衛が三ノ丸木戸口(大手口)に向かうと、二方面から激しく銃撃される。
*しばらく身動きが取れず、三ノ丸木戸口付近では50~60名が負傷した。
*三ノ丸にある門は二階門で、三ノ丸に配備された城兵は多かった。
*しばらくして搦手(西ノ丸)に豊臣方が侵入し、鉄砲の煙が薄くなってきたため、勘兵衛は木戸口の脇を強行突破する。
勘兵衛は言及していませんが、大手口を攻めた一柳直末は戦死しており、二方面からの銃撃されたり、50名を超える負傷者が出たりするなど、後北条方から激しい攻撃があった様子がわかります。
〈本丸へ向かう〉
*三ノ丸の城兵が二ノ丸に退却するのに混じりながら、三ノ丸と二ノ丸の間の水堀に架かる18m程の欄干のついた橋を渡って、勘兵衛は二ノ丸に攻め込んだ。
*本丸がどこにあるかわからなかったが、北西方向の高い土塁のところに大杉がたくさんあり、そこから鉄砲が撃たれているため、勘兵衛はそこが本丸だと思う。
*大杉に登って見てみると、曲輪のなかに東向きの広間(建物)があり、その前庭には200人程の城兵がいた。
*勘兵衛が塀を乗り越えて本丸に侵入すると、北西の角の約10m四方で高さ3.6mの場所に櫓があり、200人程の城兵は一気にそこへ引き上げた。
*勘兵衛はそれを追い、櫓にいる城兵としばらく槍で叩き合いをする。
↓兵糧庫跡から見た本丸。勘兵衛は二ノ丸から本丸方面を見たと思われるため、もう少し遠く見えていたはずですが、後北条方が本丸を守るために城兵を集めて反撃していた様子をこのように見ていたのかもしれません。
〈山中城の落城〉
*櫓の下に「大将」と名乗る者がいて、2名の首を討つ音がした。
→首を討たれた「大将」ともう1名が誰なのか勘兵衛は記載していませんが、山中城に派遣されていた北条氏勝は脱出して玉縄城に戻っているため、「大将」は松田康長のことである可能性があります。
*敵味方入り交じって櫓に上がると、兵の半分は北と西の角の堀へ転がり落ち、櫓がある場所も陥落した。
*秀吉直衛の「黄母衣衆」が入ってきたのに気が付いた勘兵衛は、一氏の馬印を本丸奥の櫓に立てて、中村軍の手柄であることを明示する。
この時、勘兵衛は一氏の配下として手柄をアピールしますが、その後一氏と折り合いが悪くなり中村家から離れることになります。
こうして山中城は夕方頃には落城したようで、山中城の予想外に早い落城により、足柄城の北条氏光たちも小田原に撤退するなど、後北条氏は軍勢を小田原に集めて籠城に備えることになりました。
なお、玉縄城に戻った氏勝は、小田原城の籠城には参加せずに玉縄城で籠城しますが、東海道を進軍してきた浅野長吉らの軍に4/21に投降します。
今回はここまで!
これまでも戦いが行われた城を紹介しましたが、「渡辺水庵覚書」により兵たちの行動や情景をリアルに知ると、今では穏やかな公園となっている城跡も、当時は生きるか死ぬかの戦いが行われた場所だということを改めて実感しました。
城の規模が大きく、曲輪や土塁、橋、障子堀などがわかりやすく復元されていて、山城に行ったことがない方が興味を持つきっかけになるようなお城だと思います!ぜひ行ってみてくださいね!
参考文献
『史跡山中城跡―北条流角馬出や障子堀が残る山城―』 三島市教育委員会、2002年
『三島市埋蔵文化財発掘調査報告ⅩⅩⅠ』三島市教育委員会、2017年、※1)21頁、※3)23頁
加藤理文・中井均編『静岡県の山城ベスト50を歩く』 サンライズ出版、2009年
中井均編『東海の名城を歩く 静岡編』 吉川弘文館、2020年
香川元太郎『日本の城』 ワン・パブリッシング、2021年、※2)112頁
西股総生『東国武将たちの戦国史』 河出書房新社、2015年
西股総生『戦国の軍隊』 学研パブリッシング、2012年、※4)32頁、※5)33頁
黒田基樹『戦国北条一族事典増補改訂』 戎光祥出版、2024年
黒田基樹『敗者の日本史10小田原合戦と北条氏』 吉川弘文館、2013年
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