2022.07.15

お城へいざ参ろう! 湖畔に聳える山城 津久井城 前編②

鶴若まる
鶴若まる

みなさん、こんにちは。

前編①に続き、今回は戦国時代の津久井城の歴史について紹介します!

 

お城へいざ参ろう! 湖畔に聳える山城 津久井城 前編①

 

後北条氏と津久井城

 

そもそも後北条氏とは…

後北条氏は、宗瑞から氏直までの5代約100年にわたり、小田原城を本拠地として関東の大部分を支配した戦国大名です。
鎌倉時代の執権の北条氏と見分けるため、戦国時代の北条氏を後北条氏とも言いますが、両者に系統のつながりはありません。宗瑞は備中伊勢氏の出自で、室町幕府の将軍に仕えていましたが、1493年に伊豆に侵攻し、戦国大名となっていきます。その後、相模国に勢力を広げていきますが、関東ではよそ者の侵略者として扱われてしまいます。そこで氏綱は、1523年6月から9月の間に苗字を伊勢から北条に変え、相模守を世襲した鎌倉(執権)北条氏の名を継承することで、相模国の支配を正当化しようとしました。

 

*1510年 相模国の掌握を目指す宗瑞に味方をした長尾景春らが「津久井山」へ移り、扇谷上杉氏らと戦う
→城としては史料上に登場しませんが、城や砦が築かれていたと考えられます。

 

*1524年2月武田氏が甲斐東部から津久井地域に侵攻し、度々後北条氏と合戦になる
→1月に後北条氏に重要拠点である江戸城を攻略された扇谷上杉氏が同盟関係にあった甲斐の武田氏に支援を頼み、武田氏は扇谷上杉氏に味方するため、津久井へ侵攻しました。

*1525年 武田氏と後北条氏の合戦が続くが、津久井城は落城せず
→「武田と後北条の合戦が絶え間ない」「津久井の城は未だに落ちていない」と書かれた史料あり、両者の間の戦いは続いていたものの、落城せず持ち堪えていたことがわかります。
この時、津久井城がどちらに味方していたかはハッキリしませんが、津久井城のあった場所は後北条氏支配圏と捉えられていたようで、城主の内藤氏は後北条氏に従っていたとも考えられています。

 

津久井城主の内藤氏

出自は明らかではなく、1524年に初めて史料上に登場します。その頃には津久井城主となっていたと想定されており、大和入道-朝行-康行-綱秀-直行と5代続いたとされます。戦国時代初めの頃は、扇谷上杉氏に従っていた可能性もあり、しばらくは家中でもどちらに従うか意見が分かれていたようですが、次第に後北条氏に従うようになっていきます。

 

*1569年2月 氏康の命令で津久井城の普請が行われる?
→武田氏との同盟が破れたこともあり、防御を固める修繕を行ったようです。堀の掘削を行ったものの、堀の幅や堀壁の角度が甘いと氏康からやり直しを命じられています。ただし、津久井衆が作業に加わっていますが、修繕した城が明記されておらず、津久井城を修繕したとは限らないようです。※1

 

三増峠の戦い

1554年に武田氏・後北条氏・今川氏は同盟を結びますが、1568年末に同盟は破棄され、1569年10月武田信玄が小田原城を包囲します。しかし、信玄が無理な城攻めはせずに甲斐に戻る選択をしたため、後北条氏は三増峠に氏照・氏邦の軍勢を待ち伏せさせ、氏政が小田原城から出撃し、武田軍を挟み撃ちにしようとしました。信玄も三増峠の麓に陣を張り激戦となるも、氏政が到着する前に、逆に挟み撃ちされてしまい、氏照・氏邦の軍勢は総崩れとなりました。

*1569年10月 三増峠の戦いに内藤氏と津久井衆出陣できず
→三増峠は津久井城の南方約3㎞にあります。信玄が津久井城の南に別軍を配置し、津久井城を牽制したため、内藤氏と家臣(津久井衆と呼ばれます)は、津久井城の守りに集中することになり、出陣できなかったようです。

*1569年11月 氏政が津久井城と滝山城の普請を命じる
→今後また信玄が侵攻してくる可能性もあったため、城の修繕が行われました。被害が大きかったようで、津久井城は氏照配下の家臣の力も借りて修繕されたようです。

 

*1582年7月 津久井城の修繕計画書を見た氏政がやり直しを命じる
→氏政は戦国的な堅固な城にするための修繕を考えていたようですが、氏政が派遣した家臣が書いた計画書では「庭園の飾りのような門」の設置などが計画されていました。そのため、敵が攻めてきたときに一番の防御点となる根小屋部とその周辺のみの修繕に専念するように命じています。武田氏滅亡後、甲斐は徳川の領土となっていたため、氏政は国境の防備を厳重にしようと考えたようです。

 

1590年「小田原合戦」

天下統一を目指す豊臣秀吉は、後北条氏が大名間の戦いを停止させる「関東・奥両国惣無事令」に違反したとして、20万を超える大軍で小田原城を包囲しました。津久井城主の内藤直行は小田原城に籠城し、父の綱秀は津久井城に籠城していたと考えられています。

*4月中旬から津久井城は徳川家康の軍勢に攻められる
→井伊直政や鳥居元居の家臣が津久井城の兵を討ち取ったと記録に残っています。

*5月24日 綱秀が3つの村に津久井城の普請の人員を出すように命じる
→10時から16時まで働くように命じており、包囲はされているものの攻撃はされていなかったようで、城の防御を高めようとしていました。

*6月25日 津久井城落城
→豊臣方は津久井城を重要な支城として十分な兵がいると想定していましたが、実際はあまり多くなかったようで、攻撃後すぐに落城したと考えられています。同日付の家康の書状が残っており、城は徳川方に受け渡されたことがわかっています。

米曲輪大手虎口

本城曲輪周辺では「破城(城破り)」が行われた痕跡が確認されています。
落城跡、石垣の一部を壊したり、堀を埋めたりと城の主要部分を破壊する儀礼的な行為のことを「破城」といいます。本城曲輪虎口や米曲輪(本城曲輪に隣接)大手虎口で土塁や石積みを壊した痕跡が見つかっています。

 

鶴若まる
鶴若まる

津久井城落城後…

直行は追放となった北条氏直とともに高野山へ赴いたとされています。綱秀はその後の詳細は不明なものの、平塚市に供養塔が残っていることが判明したそうです。

 

後北条氏の支城

 

戦国大名は広大な領土を守るために、様々な場所に支城を築きました。
小田原城を本拠地として、重要な支城は後北条の一族を城主にしたり(氏照は八王子城・滝山城、氏邦は鉢形城)、各地の国人を取り立てて支城を任せたりして、領土を拡大・維持していました。

 

情報連絡用の「伝えの城」、兵の移動や駐屯用の「つなぎの城」、敵との最前線にある「境目の城」などと、城にはそれぞれ役割がありました。津久井城は武田氏・徳川氏が領土とした甲斐国との境にある「境目の城」として存在しており、境界を維持・管理する役割を担っていたようです。

 

また、後北条氏は相模国を三浦郡・東郡・中郡・西郡・津久井郡の5つに分け、そのなかの三崎城・小机城・田原城・小田原城・津久井城を拠点城郭に位置づけていました。

鶴若まる
鶴若まる

「境目の城」を任されていたことなどを考えると、内藤氏が後北条氏に信頼されていた様子が伝わってきます。

 

 

出土した遺物からわかること

 

津久井城と後北条氏の関わりを示すものとして、「かわらけ」が発掘調査で出土しています。
「かわらけ」とは、素焼きの土器のことで、儀式や宴会の皿などとして使われていました。

○小田原手づくね成形かわらけ
氏綱が導入し後北条氏の没落とともに姿を消す特徴的なかわらけで、後北条氏当主との直接的な関係を示す遺物といわれています。
支城のなかでも、八王子城・鉢形城・玉縄城など一族や譜代が城主の重要支城から出土しており、主郭や宗教的な色合いの濃い曲輪で発見される特徴があります。津久井城では本城曲輪と御屋敷跡から10点以上出土しており、これほど出土しているのは小田原以外だと、葛西城・八王子城・津久井城のみです。

 

○小田原かわらけ
小田原以外では見つかっていないかわらけで、津久井城の本城曲輪と御屋敷跡から出土しました。これが小田原以外で唯一のもので重要な存在といわれています。

 

鶴若まる
鶴若まる

特徴的なかわらけの出土によって、津久井城が支城のなかでも、後北条氏との繋がりの強い重要な城であったことがわかります。

 

今回はここまでです!

長文にお付き合い頂き、ありがとうございました。

後編ではお城をレポートします!

 

津久井城で撮影したあじさいを最後にどうぞ…ささやかなお礼です。

 

参考文献

『津久井町史 通史編 原始・古代・中世』 2016年、相模原市

『城山町史5 通史編 原始・古代・中世』 1995年、城山町

『津久井城ものがたり』 2018年、神奈川県公園協会

『戦国大名北条氏の歴史』 2019年、吉川弘文館

黒田基樹 『戦国北条五代』 2012年、戎光祥出版

竹井英文 『東日本の統合と織豊政権 列島の戦国史7』 2020年、吉川弘文館

 

※1『津久井町史 通史編』では津久井城の普請として紹介されていますが、『津久井町史 資料編 考古・古代・中世』(2007年、相模原市)では、津久井から遠くなく、かつ駿河国の城と想定しています。

 

合わせて読みたい!

Writerこの記事をかいた人

鶴若まる

鶴若まる

BMW所属の学芸事務員、歴史学科を専攻し三度のフラペチーノより城郭が好きという強者。気になるものは必ず見届ける行動力を持つ。大好きな城は小谷城とのコメントからもうかがえるように,もはや後戻りできない戦国山城女子

一覧へ戻る