2023.12.16
お城へいざ参ろう! 幸せな記憶と共に消えた悲しみの城 小谷城①
みなさん、こんにちは!
前回の第4城は、後北条氏の重要な支城「津久井城」でした。
今回のお城へいざ参ろう!は「小谷城」編です!(初の関西地域です!)
今回の「小谷城」は鶴若まるのルーツともいえるお城です!小谷城は戦国大名の浅井氏の城で、大河ドラマ等でも度々登場する「お市」「浅井三姉妹」ゆかりの城として有名です。鶴若まるは「浅井三姉妹」に興味を持ったことで、日本史やお城が好きになりました!
戦国五大山城の1つにも数えられる小谷城へ、いざ参りましょう!
「戦国屈指の山城」小谷城とは
小谷城は近江国の東北部(滋賀県長浜市)にあり、北陸・東海・畿内(大阪・奈良・京都の一部)を結ぶ、水陸交通の結節点に位置しています。城下で北陸と東海を結ぶ「北国脇往環」と、畿内と北陸を結ぶ「山西街道」が合流しています。また、付近を流れる田川は、姉川と合流して琵琶湖に繋がっています。
小谷城は、標高495mの小谷山の山頂から尾根上に築かれています。小谷山は馬蹄型をしており、①山頂(大嶽)から東側尾根に連続する曲輪群「主要部」②山頂とその西側尾根の出城的な曲輪群③東西尾根の間にある清水谷の屋敷・寺院④清水谷の南に広がる城下町の4つから構成されています。
浅井氏の台頭と小谷城
浅井氏は浅井郡丁野を本拠とした国人(地方に土着した専業武士)で、北近江を支配した京極氏に古くから従っていました(根本被官といいます)。浅井氏が表舞台に登場するのは、浅井亮政の代からです。
京極高清のもとでは、有力家臣の上坂氏の専横に根本被官たちが不満を持っていました。高清と上坂氏は次男高吉(高慶)に家督を継がせようと考えていたようですが…
1523年3月後継者問題の訴訟の結果(おそらく高吉に家督を継がせる)に対し、上坂氏に不満を持っていた亮政たち根本被官が決起し、高清・高吉・上坂氏たちを近江から追い出します。
亮政はこのクーデターの一員で、次に権力を握ったのは浅見氏でしたが、1525年になると亮政は上坂氏と和解し、高清を帰国させることで浅見氏に取って代わる存在になっていきます。
浅井氏が京極氏の根本被官から、北近江のリーダーとなることを示すように築かれたのが小谷城でした。
小谷城の正確な築城時期は不明ですが、1523年~1525年に築城されたと考えられています。南近江の六角氏は、京極氏の争いにつけこみ北近江への勢力拡大をねらっており、1525年に六角氏が浅井の城「大津見(具)」=「大嶽」へ攻めに向かったという記述が残っています。
この記述から、1525年には小谷城が築かれており、当初は大嶽が主郭だったことがわかります。大嶽は小谷山の山頂にあり、国人の城として築かれる高さではなく、戦国大名の山城クラスの高さであることから、小谷築城は「湖北の覇者としての独立宣言」とも考えられています(※1)
↑清水谷からみた「大嶽」(正面の山の頂上)
また、本拠地である丁野から小谷山を見ていたことなどから、大嶽が主郭だった当時は西側が正面(現在は南側が正面)であったとも考えられています。(※2)
1525年5月~9月に六角氏が攻めてきたときに、浅井氏の援軍としてきた朝倉教景(金吾)が陣を置いたのが、「金吾丸」といわれています。
ただ、近年の研究では越前朝倉氏は六角氏を援助するために出陣したということがわかってきています。すると、金吾丸は清水谷をはさんで大嶽の正面となり、対峙するには良い位置ということになります。
南北に4段の平削地がありますが、土塁は低めであまり残っておらず、1525年以降修築されていないようです。
上)金吾丸の見取図 下)金吾丸(北から南を撮影)
このときの戦いに負けた亮政と京極氏は美濃に逃れました。その後も亮政は六角氏に負けて近江から追い出されることもありますが、復帰して力を維持・拡大しました。同等の立場の国人からクーデターを起こされず、亮政が北近江のリーダーになれたのは、六角氏の侵攻を防ぎたい国人たちの結束力を上手く利用した結果のようです。
1534年になると亮政は安堵状(所領などを保証するときの文章)を出すようになり、名実ともに京極氏の家中のトップになっていきます。
8月には 亮政が京極高清・高広親子や京極氏家臣を清水谷の屋敷へ招き、贅を尽くした饗応をします。献上品や献立は豪華で、かつ格式ばって行われました。この饗応を行うことで
①浅井氏の地位を京極氏に公認させる
②同等の立場であった国人たちに浅井氏にはかなわないと思わせる
ことができ、浅井氏が北近江支配の実権を握っていることを内外に示すことになりました。
主郭が大嶽から東側尾根の曲輪群に移った時期は不明ですが、この頃には清水谷に屋敷や寺院が作られていたと考えられます。
清水谷の入口には幅20mの堀や土塁がつくられており、奥行は1000mの平地とその奥に約920mと続いています。遠藤直経や浅井山城といった家臣の屋敷が並び、奥には浅井氏の菩提寺である徳昌寺(徳勝寺)がありました。
上)遠藤直経屋敷 下)徳昌寺
そして、平地の一番奥にあったのが浅井氏の屋敷でした。京極親子を招いて饗応した場所と考えられており、その際の記録によれば、とても広い座敷があり、その外には庭、奥には小座敷や御くつろぎ所などがあったようです。
伝承や絵図により浅井氏の屋敷があったとされていましたが、近年の発掘調査で伝承を裏付けるような発見がありました。高さ約2.5mの土塁、長さ約10mの排水溝跡、建物の礎石を固定する「根石」、当時高級品であった青磁皿の破片が見つかり、浅井氏が生活した屋敷である可能性が高まりました。
久政が考える生き残る道
1542年1月 亮政が亡くなり、息子の久政が家督を継ぎます。
1553年11月 六角氏との戦いに大敗した久政は、六角氏と講和を結びます。
ただ、この講和は主従関係に近いもので…
1556年~1557年に六角氏が伊勢を攻めると、その遠征に浅井氏は従軍します。
1559年1月 久政の息子(新九郎のちの長政)が元服し、六角義賢から一字をもらって「賢政」と名乗ります。戦いに負けた後に一字もらう(偏諱)ことは浅井氏にとって屈辱なものでした。また、六角氏の家臣である平井定武の娘を賢政の妻に迎えますが、これは六角氏の家臣である平井氏と同等の扱いであったことが示されています。
このように、久政の時代は六角氏と融和路線をとり、六角氏の傘下に入ることで、浅井氏の立場を維持する道を選びました。ただ、全てを牛耳られていたわけではなく、浅井氏の主権は維持していたようです。
そして、久政の頃にも小谷城の整備は行われていたようです。
清水谷の奥を登った先、山王丸と大嶽の間の鞍部にあるのが「六坊」で、ここには浅井氏領内の寺院の出張所がありました。久政が「複数の寺院が小谷城の搦手に出張所を建てているから、あなたの寺も建てなさい」と指示している書状があることから、有力な6つの寺院が散らばっているのは不便であるため、ここに集めたと考えられています。六坊は南北に削平地が連なっており、南方東側には石積、東側には竪堀が数本あります。
↑山王丸からこの道を下った先にあるのが六坊で、そこから登った先にあるのが大嶽です。
今回はここまで!
京極氏に従う国人だった浅井氏が、次第に台頭し北近江のリーダーとなった証が小谷城の築城でした。これまで取り上げたお城とは少し違う、城主一族の成長とリンクしたお城で、改めて大きく立派な城を築くということが武士にとって力の象徴であったのだと感じました!
次回は小谷城の主要部の説明とともに、織田信長が登場します!
参考文献
小和田哲男『浅井長政のすべて』 新人物往来社、2008年 ※1)P61
小和田哲男『近江浅井氏の研究』 清文堂出版、2005年
太田浩司『浅井長政と姉川合戦』 サンライズ出版、2023年 ※2)P67~68
宮島敬一『浅井氏三代』 吉川弘文館、2008年
長浜市長浜城歴史博物館『歩いて知る浅井氏の興亡』 サンライズ出版、2008年
長浜市文化財保護センター『史跡小谷城跡保存管理計画書』 2014年
産経新聞 2018年12月11日(https://www.sankei.com/article/20181211-QT3W7GZ4N5PLVEOIFLX6OUBNG4/)
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